はじめに
文学フリーマーケット 東京42
2026年5月4日 於 東京ビッグサイト 1-4ホール
購入ブース 「秋山ともす」I58

『第一歌集 バターロールがまた焦げている 秋山ともす』
好きな短歌と、少しだけ感想を
この夏の最後に句点を打つ役として砂浜に残った浮き輪
サザンオールスターズのバラードの景色が思い浮かびます。人影も疎らな夕方の浜辺。吹き抜ける風には秋が混じり、波光はちょっとにくらしいほどキラキラしているのです。さっきまで打ち寄せる波と鬼ごっこをしていたはずの渚なのに、砂丘から出る階段をほんの数段上ってふと振り向けば「。」が見えて、するととたんに海が、遠くに見えてしまうのでした。それは誰かがつけた句点。だからこそポカンと諦めて受け入れてしまったのかもしれません。
クラッカーを放つ仕草で傘をさす子らに拍手で雨が応える
雨降りの下校風景を想像しました。生徒玄関に均質に並んだ下駄箱ももどかしく、靴を履き替えて飛び出していきたい子供たちですが、今日は雨。庇の下でいったん止まって傘を開かねばなりません。そうしてまた駆け出していくのです。次々と庇の先に一列に空を打ち抜く傘を開いて、その傘を雨が叩くと拍手のように響きます。クラッカーを放つ係は祝う側ですが、子らのしぐさは無意識です。無意識だからこそ「天」に対する祝福のようなしぐさとなり、「天」もまた、そんな子らを祝福するのです。素敵な歌だなと思います。
意味もなく添えられているTシャツの英語みたいな優しさだった
smile とか happy とか。Have a good day とか、デザイン的な理由だけで書いてある英単語や英文。特別なものでも、主張が強いわけでもなく、どう好意的にみても間に合わせ、隙間を埋めるためだけのレディーメード。だけど、ないとさみしいし、なんだか決まらない。「意味もなく」だからある意味で臆面もなくステレオタイプな耳障りのよい言葉をバンと書いてしまえるのでしょう。そんな「優しさ」だというのです。だけど本当は、受けた優しさを、そういう類のものなんだと思わなければマズい、そんな状況があるのではないでしょうか。素直に受け止めてしまったら、ちょっとつらくなるような、そんな感じがしました。「やめてよ、そういうの」って強がらなければいけない雰囲気を感じました。
無果汁のジュースと同じ 優しさがなくても優しい人にはなれる
こちらも「優しさ」についての短歌でした。前のものが63ページで、こちらは66ページと、近くに置かれているのですが、前のが過去形であるのに対して、こらは現在形もしくは意思(未来)を示していることから、前のが相手の優しさだとすれば、こちらのは自分自身の優しさについて自問自答した結果だったのかもしれません。
五・七 で一文字空けになっています。ここまでが直喩の喩える側です。そして次が句跨りの五ー四ー四で「優しさがーなくてもー優しい」そして結句七「人にはなれる」という形式で、喩えられる側を示しています。句跨り最初の「優しさが」で自然に区切ってよんでしまうので、「なくても」の前に休符が入るように感じ、それが詠嘆というか、sighのような効果をもたらしていると感じました。そのものがなくてもそれっぽくはあれるはず、という、諦めを前提とした自信なさげで投げやりな決意ですが、ともかく、優しくなりたいという前向きな歌と読みました。
人生の初級をずっと繰り返すバターロールがまた焦げている
バターロールを自分で作っているのでしょうか。買って来たバターロールをトースターで焼いているのでしょうか。「人生の初級」というところから、わたしは後者と読んでみました。この歌の下の句が歌集全体のタイトルですから、キーとなる歌だと思います。食パンは多少焦げても美味しいですが、バターロールの背中をトースターで焦がしたらもう、その部分は炭ですから、そこだけは毟って食べたい感じになります。また焦がした。全く、ダメだなわたしは。とか言いながら、そういう自分がちょっと好きでもあるような、ほほえましさを感じましたし、もっと向上したい、変わりたい、という意思も垣間見える。それは歌集全体のテーマなのかなと、感じました。
君に捨てられてしまったサボテンに違う名を付け里親になる
「君に捨てられてしまった」のは「サボテン」だけじゃないはず、とまず思います。そして以前、たぶん彼女が気に入ってつけた名前をそのまま使い続けることができないのです。お互い捨てられたもの同士、彼女抜きの新たな関係性の上で、支え合っていこうじゃないか、という失恋ソング的な短歌かなと思います。それを認めたくない未練なんかも含めて、本当に男って、そういうところありますよね。
目指す木に飛び着けなかったムササビのようにマスクが朽ち果てている(されない日々)
ここからは、連作的な小題がついていているので( )に記載しています。
この短歌は、直喩がすごいです。歌集全般を通して、直喩で言い当てる系の短歌が特徴なのだなと感じます。短歌の王道といってもいいのではないでしょうか。
この歌の直喩の凄いなと思ったところは、今現在の状態ではなく、このような状態になった原因「目指す木に跳び着けなかった」に主眼があるところです。重要なのは結句「朽ち果てている」で、これが単に「落ちている」だと、文字通り墜落したムササビみたい、で終わるのですが、マスクそのものは、落下から長い時を経過しているのです。この時間差によって、直喩に時間軸が加味され、一味違う比喩が成立しているのではないかと、暫定的に書いておきたいと思います。
メモを取るわたしの癖をかわいいと言ったあなたは地図から消えた(遠ざかる)
「遠ざかる」というタイトルのついた一連の短歌から、「地図」がカーナビと分かります。そして「メモ」が重要な意味をもっている短歌です。メモは忘れたくないものを書くもの。そのことと「地図から消えた」「あなた」の存在の対比です。「あなた」は「メモを取るわたしの癖をかわいいと言った」のでしたが、今、「あなた」は「わたし」の「メモ」の中にしかいなくなってしまいました。「かわいい」という感情には主従があって、「あなた」は「わたし」を上からみているから「かわいい」と評したのだと思います。わたし宇祖田もメモはよくとる方なので、メモを取ることを「かわいい」で済まされてはたまらない、という想いもくすぶっています。わりと、強迫観念めいたところも、あったりするのです。忘れたくない、残したい、覚えておきたい、という隠れた情念を「かわいい」だけで、と。
「わたし」のことが重たくなったのか、つまらなくなってしまったのか。ラストの「消えた」という言葉から、自然消滅的な経緯、または「あなた」の方が一方的に冷めていってしまった様子が感じ取れます。さみしい歌だなと思いますが、別れるのが正解よ、とも思ったり。
傷口に昨日とおなじ服を着せ道玄坂がひどくまぶしい(ひどくまぶしい)
幸せな朝ではないと感じます。「昨日と同じ服」で「道玄坂」なので、家に帰らないで渋谷に居続ける子供たちを思ったりもします。日々傷ついて、ホテルで一夜を過ごしても癒されることはなく、言えない傷を隠して渋谷で生きていく。結句の「ひどくまぶしい」は『異邦人』の「太陽が黄色かったから」ともとれるし、太陽の光としての希望ともとれます。ズタボロだけど、今日もまた太陽の下で生きていくんだという、後者だといいなと思います。
わたしには懐かなかったTシャツが実家の母と年老いていく(大輪)
擬人化されたTシャツ。似合わないのか、着心地なのか、生地やデザインの微妙な何かのせいで、タンスにしまったままになる服ってあります。それを「懐かなかった」と擬人化することで、優しさと、Tシャツの第二の人生、というものが見えてきて、下の句に深みを与えていると思います。子供のおさがりを着続ける母、という性格描写もとても理解しやすく、これはTシャツの歌ではなく母の歌なのだと思います。
キス &クライのように週末の天気予報を眺めるふたり(傘がほしい)
この直喩もすごいと思いました。週末に待ち受けている何事かの重要性が伝わってきます。これは、それほど真剣な緊張感の中、天気予報を見ている二人きりの部屋にあって、第三者視点で作られた歌です。たとえば画面が一瞬暗くなって、並んだ二人が映り込んだ瞬間、あ、この感じ、という気づきかもしれません。創作する人は、どんなときでもこういう客観的な視点をもっているのだと思いました。
路地裏の第一発見者になって仔猫に夏の名前をつける(夏の名前)
「路地裏」で「仔猫」を見つけて「夏の名前をつけ」た。という状況がまずは浮かびますが、拾って帰って家で飼っている、という感じはしません。よく読むと、上の句と下の句は、つながりにくいのです。「路地裏の第一発見者になって」に「仔猫」は出てきませんし、「仔猫に夏の名前をつける」に「路地裏」は出てきません。「路地裏」に「仔猫」がいた。という確証は、この短歌からは得られませんし、「路地裏」を見つけた記念として「仔猫に夏の名前をつけた」としても、「路地裏」との関連を示す名前にはならないだろうからです。
この章のタイトル「夏の名前」を読み通しても、猫はこの一首目にしか出てきません。これは、シュールな歌だととらえ直します。シュールとは脈絡がつかないことを、なんの事件性もなくシームレスにつなげてしまうことと仮定するなら、「路地裏を見つけたから猫に夏の名前をつけよう」とか、上の句の「なって」が意思・希望を示す未来形とすれば「まだみぬ路地裏を誰よりも早く発見して、仔猫の命名権を獲得したら夏の名前をつけるぞ」と読むことも可能ですが、そのチャレンジの主催者が謎です。そもそも「夏の名前」って漠然としています。どんな名前なんだろう。など、限りなく想像が膨らんでいくところが、好きな歌として挙げた理由なのでした。
おわりに
日常を逸脱することのない言葉たちと、その範疇で見出される直喩の饒舌さが、日常世界の可能性を拡張していく、心地よい歌集だと感じました。まさに、歌人の生活を記録した日誌だと思います。世界は多様です。それは享受するものではなく、感受するものなのだと思いました。

とてもうれしい サイン本です。

