宇祖田都子の短歌の話

森羅万象を三十一音に

歌集『バターロールがまた焦げている』秋山ともす から好きな短歌を

はじめに

文学フリーマーケット 東京42

2026年5月4日 於 東京ビッグサイト 1-4ホール

購入ブース 「秋山ともす」I58

『第一歌集 バターロールがまた焦げている 秋山ともす』

 

好きな短歌と、少しだけ感想を

この夏の最後に句点を打つ役として砂浜に残った浮き輪

サザンオールスターズのバラードの景色が思い浮かびます。人影も疎らな夕方の浜辺。吹き抜ける風には秋が混じり、波光はちょっとにくらしいほどキラキラしているのです。さっきまで打ち寄せる波と鬼ごっこをしていたはずの渚なのに、砂丘から出る階段をほんの数段上ってふと振り向けば「。」が見えて、するととたんに海が、遠くに見えてしまうのでした。それは誰かがつけた句点。だからこそポカンと諦めて受け入れてしまったのかもしれません。

クラッカーを放つ仕草で傘をさす子らに拍手で雨が応える

雨降りの下校風景を想像しました。生徒玄関に均質に並んだ下駄箱ももどかしく、靴を履き替えて飛び出していきたい子供たちですが、今日は雨。庇の下でいったん止まって傘を開かねばなりません。そうしてまた駆け出していくのです。次々と庇の先に一列に空を打ち抜く傘を開いて、その傘を雨が叩くと拍手のように響きます。クラッカーを放つ係は祝う側ですが、子らのしぐさは無意識です。無意識だからこそ「天」に対する祝福のようなしぐさとなり、「天」もまた、そんな子らを祝福するのです。素敵な歌だなと思います。

意味もなく添えられているTシャツの英語みたいな優しさだった

smile とか happy とか。Have a good day とか、デザイン的な理由だけで書いてある英単語や英文。特別なものでも、主張が強いわけでもなく、どう好意的にみても間に合わせ、隙間を埋めるためだけのレディーメード。だけど、ないとさみしいし、なんだか決まらない。「意味もなく」だからある意味で臆面もなくステレオタイプな耳障りのよい言葉をバンと書いてしまえるのでしょう。そんな「優しさ」だというのです。だけど本当は、受けた優しさを、そういう類のものなんだと思わなければマズい、そんな状況があるのではないでしょうか。素直に受け止めてしまったら、ちょっとつらくなるような、そんな感じがしました。「やめてよ、そういうの」って強がらなければいけない雰囲気を感じました。

無果汁のジュースと同じ 優しさがなくても優しい人にはなれる

こちらも「優しさ」についての短歌でした。前のものが63ページで、こちらは66ページと、近くに置かれているのですが、前のが過去形であるのに対して、こらは現在形もしくは意思(未来)を示していることから、前のが相手の優しさだとすれば、こちらのは自分自身の優しさについて自問自答した結果だったのかもしれません。
五・七 で一文字空けになっています。ここまでが直喩の喩える側です。そして次が句跨りの五ー四ー四で「優しさがーなくてもー優しい」そして結句七「人にはなれる」という形式で、喩えられる側を示しています。句跨り最初の「優しさが」で自然に区切ってよんでしまうので、「なくても」の前に休符が入るように感じ、それが詠嘆というか、sighのような効果をもたらしていると感じました。そのものがなくてもそれっぽくはあれるはず、という、諦めを前提とした自信なさげで投げやりな決意ですが、ともかく、優しくなりたいという前向きな歌と読みました。

人生の初級をずっと繰り返すバターロールがまた焦げている

バターロールを自分で作っているのでしょうか。買って来たバターロールをトースターで焼いているのでしょうか。「人生の初級」というところから、わたしは後者と読んでみました。この歌の下の句が歌集全体のタイトルですから、キーとなる歌だと思います。食パンは多少焦げても美味しいですが、バターロールの背中をトースターで焦がしたらもう、その部分は炭ですから、そこだけは毟って食べたい感じになります。また焦がした。全く、ダメだなわたしは。とか言いながら、そういう自分がちょっと好きでもあるような、ほほえましさを感じましたし、もっと向上したい、変わりたい、という意思も垣間見える。それは歌集全体のテーマなのかなと、感じました。

君に捨てられてしまったサボテンに違う名を付け里親になる

「君に捨てられてしまった」のは「サボテン」だけじゃないはず、とまず思います。そして以前、たぶん彼女が気に入ってつけた名前をそのまま使い続けることができないのです。お互い捨てられたもの同士、彼女抜きの新たな関係性の上で、支え合っていこうじゃないか、という失恋ソング的な短歌かなと思います。それを認めたくない未練なんかも含めて、本当に男って、そういうところありますよね。

目指す木に飛び着けなかったムササビのようにマスクが朽ち果てている(されない日々)

ここからは、連作的な小題がついていているので( )に記載しています。
この短歌は、直喩がすごいです。歌集全般を通して、直喩で言い当てる系の短歌が特徴なのだなと感じます。短歌の王道といってもいいのではないでしょうか。
この歌の直喩の凄いなと思ったところは、今現在の状態ではなく、このような状態になった原因「目指す木に跳び着けなかった」に主眼があるところです。重要なのは結句「朽ち果てている」で、これが単に「落ちている」だと、文字通り墜落したムササビみたい、で終わるのですが、マスクそのものは、落下から長い時を経過しているのです。この時間差によって、直喩に時間軸が加味され、一味違う比喩が成立しているのではないかと、暫定的に書いておきたいと思います。

メモを取るわたしの癖をかわいいと言ったあなたは地図から消えた(遠ざかる)

「遠ざかる」というタイトルのついた一連の短歌から、「地図」がカーナビと分かります。そして「メモ」が重要な意味をもっている短歌です。メモは忘れたくないものを書くもの。そのことと「地図から消えた」「あなた」の存在の対比です。「あなた」は「メモを取るわたしの癖をかわいいと言った」のでしたが、今、「あなた」は「わたし」の「メモ」の中にしかいなくなってしまいました。「かわいい」という感情には主従があって、「あなた」は「わたし」を上からみているから「かわいい」と評したのだと思います。わたし宇祖田もメモはよくとる方なので、メモを取ることを「かわいい」で済まされてはたまらない、という想いもくすぶっています。わりと、強迫観念めいたところも、あったりするのです。忘れたくない、残したい、覚えておきたい、という隠れた情念を「かわいい」だけで、と。
「わたし」のことが重たくなったのか、つまらなくなってしまったのか。ラストの「消えた」という言葉から、自然消滅的な経緯、または「あなた」の方が一方的に冷めていってしまった様子が感じ取れます。さみしい歌だなと思いますが、別れるのが正解よ、とも思ったり。

傷口に昨日とおなじ服を着せ道玄坂がひどくまぶしい(ひどくまぶしい)

幸せな朝ではないと感じます。「昨日と同じ服」で「道玄坂」なので、家に帰らないで渋谷に居続ける子供たちを思ったりもします。日々傷ついて、ホテルで一夜を過ごしても癒されることはなく、言えない傷を隠して渋谷で生きていく。結句の「ひどくまぶしい」は『異邦人』の「太陽が黄色かったから」ともとれるし、太陽の光としての希望ともとれます。ズタボロだけど、今日もまた太陽の下で生きていくんだという、後者だといいなと思います。

わたしには懐かなかったTシャツが実家の母と年老いていく(大輪)

擬人化されたTシャツ。似合わないのか、着心地なのか、生地やデザインの微妙な何かのせいで、タンスにしまったままになる服ってあります。それを「懐かなかった」と擬人化することで、優しさと、Tシャツの第二の人生、というものが見えてきて、下の句に深みを与えていると思います。子供のおさがりを着続ける母、という性格描写もとても理解しやすく、これはTシャツの歌ではなく母の歌なのだと思います。

キス &クライのように週末の天気予報を眺めるふたり(傘がほしい)

この直喩もすごいと思いました。週末に待ち受けている何事かの重要性が伝わってきます。これは、それほど真剣な緊張感の中、天気予報を見ている二人きりの部屋にあって、第三者視点で作られた歌です。たとえば画面が一瞬暗くなって、並んだ二人が映り込んだ瞬間、あ、この感じ、という気づきかもしれません。創作する人は、どんなときでもこういう客観的な視点をもっているのだと思いました。

路地裏の第一発見者になって仔猫に夏の名前をつける(夏の名前)

「路地裏」で「仔猫」を見つけて「夏の名前をつけ」た。という状況がまずは浮かびますが、拾って帰って家で飼っている、という感じはしません。よく読むと、上の句と下の句は、つながりにくいのです。「路地裏の第一発見者になって」に「仔猫」は出てきませんし、「仔猫に夏の名前をつける」に「路地裏」は出てきません。「路地裏」に「仔猫」がいた。という確証は、この短歌からは得られませんし、「路地裏」を見つけた記念として「仔猫に夏の名前をつけた」としても、「路地裏」との関連を示す名前にはならないだろうからです。
この章のタイトル「夏の名前」を読み通しても、猫はこの一首目にしか出てきません。これは、シュールな歌だととらえ直します。シュールとは脈絡がつかないことを、なんの事件性もなくシームレスにつなげてしまうことと仮定するなら、「路地裏を見つけたから猫に夏の名前をつけよう」とか、上の句の「なって」が意思・希望を示す未来形とすれば「まだみぬ路地裏を誰よりも早く発見して、仔猫の命名権を獲得したら夏の名前をつけるぞ」と読むことも可能ですが、そのチャレンジの主催者が謎です。そもそも「夏の名前」って漠然としています。どんな名前なんだろう。など、限りなく想像が膨らんでいくところが、好きな歌として挙げた理由なのでした。

おわりに

日常を逸脱することのない言葉たちと、その範疇で見出される直喩の饒舌さが、日常世界の可能性を拡張していく、心地よい歌集だと感じました。まさに、歌人の生活を記録した日誌だと思います。世界は多様です。それは享受するものではなく、感受するものなのだと思いました。

毎月短歌34(2026年5月)三首連作部門 宇祖田都子選「今月の好きです」

はじめに

 毎月短歌の深水英一郎さんにお声かけいただいて、今回から「毎月短歌 三首連作部門」の選者を務めます宇祖田都子(うそだみやこ)です。
 わたしは、結社に所属したこともなく、短歌による実績はなにもありませんし、わたし自身の短歌も、全然首が座っていない状態なので、説得力がないのでは? とも思ったのですが、いただいたご縁はなるべく大事にしたいと思っておりますので、お引き受けいたしました。
 ひじょうに偏った「好きです」の迸る内容になると思うのですが、どうぞよろしくお願いいたします。

選出の方法

 作者名を伏せた状態で読んでいき「好きだな」と感じたものに印をつけます。それを、日をおいて三回行った際の、印の数で決定しています。
 また、三回目に読んだ時に、単独の短歌として好きなものにも印をつけます。連作中の一首を単独で採り上げることについては葛藤もあるのですが、好きな短歌として、ご紹介していくことに決めました。
 それでは、今回選出した9作品をご紹介します。

毎月短歌34(2026年5月)三首連作部門
宇祖田都子の「今月の好きです」選

      1. 「休日出勤」あをい さん          @awoi_up20
      2. 「郷愁」あをい さん          @awoi_up20
      3. 「毒毒メイルストロム」汐留ライス さん @RCodome
      4. 「タモリは面白い」汐留ライス さん   @RCodome
      5. 「ノンヴァーバル」きいろい さん    @kiroi_iorik
      6. 「夏の通り雨」茶葉 さん        @chaba_tea1
      7. 「始末のよい」くらたか湖春 さん    @Koharu_kura
      8. 「マザーズウェポン」水川怜 さん    @mizukawa_rei
      9. 「世界を支配するように咲く」真朱 さん @l0vemash

※ 順番は三回の通読時の印の数で並べていますが、順位というわけではありません

それぞれの三首連作の感想

1.「休日出勤」あをい さん

花束の茎を斜めに切り揃え今年も憲法記念日が来る
はなまるをたっぷり綴る もう初夏の風が職員室に佇む
自由って少し淋しい 試飲では美味しく感じていたレモンティー
 一首目の、さまざまな花の根元をスッパリ斜めに切りそろえた断面の瑞々しさ、生々しさ、ある種の強制力が鮮烈なイメージを結び、「花束」「はなまる」そして、「レモンティー」が自然とつながりました。「休日出勤」の一日を時系列で詠んだ連作ととらえ、「憲法記念日」というゴールデンウィークの真っただ中の出勤の気分で読んでいきます。さらに「憲法記念日」という選択が、連作全体の重心を下げることとなり、三首目の「自由」に「フリー」より「責任」の意味合いが強くなります。それと「レモンティー」の味が「試飲」のときと購入後とで変わってしまったように感じることとを並列して「少し淋しい」と結ぶ、まとまりのある三首連作です。

2.「郷愁」あをい さん

ベランダで大三角を眺めつつごまかしている郷愁がある
自由って少し淋しい 試飲では美味しく感じていたレモンティー
にんにくは多めにいれる ふるさとの匂いを思い出さないために
タイトル「郷愁」を比較的ストレートに詠んだ三首だと感じました。ふるさとからも見えていた(夏の?)大三角形を缶ビールでも飲みながら「今は、天体観測をしているのであって、ふるさとを懐かしんでいるのではない」と自分を無理やり抑えている様子が読み取れます。このごまかしきれない感じは、二首目以降強くなっていき、三首目の「思い出さないために」という言葉で締めくくられます。故郷を離れて強くありたいという本人の気持ちと、そうありたいと思わなければくじけそうになる淋しさを効果的に配した三首連作です。

3.「毒毒メイルストロム」汐留ライス さん

春の夜のぬるく微睡むつれづれに毒の電波は脳に至れり
毒電波受けし脳にてうごめくは真白き鳥の姿に似たり
狂鳥の啼きゐる声は渦となりものぐるほしく響(とよ)むテケリ・リ

テケリ・リを調べました。 テケリ・リ (てけりり)とは【ピクシブ百科事典】 文語の採用が神話的世界における不穏さとあいまって効果的だと思いました。わたしは筋肉少女帯が好きなので毒電波もとても好きです。この連作は脳内で完結しているように読めますが、三首目の、恐怖の接近を意味する「テケリ・リ」の尋常でない「啼きゐる声」の「響み」から、現実へ越境してくる何ものかの訪れを示唆しているようです。その声で夜飛び起きることがあるかもしれないと感じさせる余韻のある連作です。

4.「タモリは面白い」汐留ライス さん

甲子園土を集める球児らと土から徐々に出てくるタモリ
呪われたビデオテープの途中からタモリ倶楽部が録画されてる
ハーレーがかっこよすぎてサイドカーに乗ったタモリを誰も見てない
タモリの面白さを記した三首からなる連作。実際にこうしたことがあったはずはないのですが、自らは主役にならず、けっして目立たず、場違いな場所にも自然に溶け込む、その自然さが笑いになるという特色を引き出したシチュエーションばかりだと感じました。そこにタモリがいるだけで何かウキウキしてくる感じ。一首目にギリギリ想像可能なシュールな場面を置くことで、二首目以降がよりリアルに感じられます。二首目は、ビデオテープ世代の方にとっては共感できる内容だと思いますし、最後にブラウン管から出て来るのが貞子のコスプレをしたタモリかも、などと想像がかきたてられます。三首目はタモリの存在についての的確な評論になっているのではないかと思います。

5.「ノンヴァーバル」きいろい さん

いないいないいないいらないばあしないあなたのいないせかいがきらい
こんなにもひかりは満ちていてだけどあなたがうまく組み上がらない
ノンヴァーバル あなたのかたちをしたものに抱きしめられて眠るしあわせ
【ノンヴァーバル】を調べたら『非言語』 とありました。喃語期の幼子が感じている世界とも読めますが、言葉によらない交流を渇望する、と考えると年代を問わず、この連作にある感覚は身に染みます。一首目、「いないいないばあ」が「無」と「有」とを繰り返し経験させるものであるなら、それは「無」から「有」の喜びの追認であるよりもむしろ、「有」から「無」を認識させる残酷さではないかと考えました。二首目にある「ひかり」もまた、「有」の世界を照らすものではなく「有」を「無」へ昇華させてしまう白く明るすぎるものに感じられます。「有」とは影に他ならないのですから。そして三首目の初句に「ノンヴァーバル」の詠嘆があります。ここに至って、一首目の「闇」と二首目の「光」という双方の「無」を乗り越えた「しあわせ」が歌われています。新約聖書『ヨハネによる福音書』は「はじめにことばがあった」から始まると記憶していますが、この連作の「あなた」を「神」と読み取ることはしません。言葉によって始まった世界で、非言語の交流を求めてしまう人間のわたしたちの本質とは何かを、考えさせられる連作です。

6.「夏の通り雨」茶葉 さん

見えるもの見えないものを選り分けてふっくらとした夢ばかりみる
想像を軽々超えるお手本をなくした夏の書道教室
雨はまだ止まないけれどなるほどと思う、あなたの声が聞こえる
とても観念的な世界を表現した連作だと思っていました。そのなかで二首目の現実感が逆に浮かび上がってきて、舞台は「夏の書道教室」かなと読んでみます。すると三首目がつながって夏の書道教室で通り雨が止むまで待っている、という景が浮かびますが、この景色に先立って一首目があり、この一首目は連作全体を包み込んでいると感じます。一首目は主人公の性格で、上の句では現実的な側面を下の句では夢見がちな側面を現しているようです。そこから二首目を読むと、書道教室という目に見える現実的な決まり事がたくさんある場面で、お手本というもっとも大きな決まり事が失われていて見えないという状況が示されており、三首目では「雨はまだ止まない」という目に見える現実と「あなたの声が聞こえる」という目に見えない「声」とが対比されていると考えます。「見えるもの」と「見えないもの」をきちんと選り分けた上で「ふっくらとした夢ばかり見る」主人公にとって、「想像を軽々超える」「夏の書道教室」で、「見えないもの」としてもたらされた「あなたの声」に「なるほど」と思ったという起承転結をつけたとき、「あなた」に恋をしている自分に気づいた、という読みが生まれ、わたしはそんな風に感じました。

7.「始末のよい」くらたか湖春 さん

逆さまで生かしておこう空洞を持て余すまでこうしてなさい
どこに刃を当ててほしいの利き手とは反対の手をどこに添えよう
このへんが切りやすそうね 大丈夫 ちゃんと残さずすくってあげる
鮟鱇。と思いました。その上で、一首目の「逆さまでいかしておこう」について調べてみると下北半島では生きたまま流通させることがあるという記載が見つかりました。二首目も、吊るし切りの難しさと読み取れますし、三首目の「すくってあげる」も水気の多い独特な鮟鱇の特徴のように読めるのですが。が、です。その上で、これらは何かを暗喩しているのではないかという不穏な感じが拭えません。要因の一つはモノローグであること。この語り口から逆に、相手側には意思があるのにもかかわらずさるぐつわでもされているのではないかという疑念の余地が生じます。そう考えると、二首目がきわだって不気味に感じられるのです。「利き手とは反対の手をどこに添えよう」は、相手は声だけでなく体も完全に拘束されていることが強調される気がするのです。そもそも一首目で逆さ吊りにされた状態であることは明らかなのですが、この状況で自分が怪我をしない方法を探りながら、という素人感と、肝の据わった感じのギャップに、サイコパス的恐怖感が増幅しました。今ではこのタイトル、こわいです。

8.「マザーズウェポン」水川怜 さん

使用済おむつを手榴弾として装備しているマザーズバッグ 
「アンパンマンみたいなうんち」と二歳児の直喩を聞いておむつを換える 
三歳はわが手を産屋の荒縄のように掴んでトイレで気張る
この連作は、三回目に読んだ時に印がつきました。母親の日常を明晰に写生した連作だと思いました。幼い子供を連れたお母さんを見かけるたびに、たいへんそうだな、と思います。わたしは子供がいないので実感することができず、こうした作品を通して追体験するしかないのですが、一首目の「手榴弾」という認識の仕方、「二歳の直喩」と冷静にきいて対応するところ、そして三首目の(あ、二歳と三歳のお二人のお子様がいることも、ここで分かります)三歳の子のトイレでの描写は圧巻と感じました。「産屋の荒縄」という比喩の迫力とリアルさが、連作全体を引き締めています。

9. 「世界を支配するように咲く」真朱 さん

誘われて(めざましテレビの占いの「良いこと」ですね?)OKをする
春物のワンピを出して待つ長い長い長い長い平日
もう好きを隠しきれないネモフィラは世界を支配するように咲く
朝の占いを信じた主人公が、お出かけする週末を待ち焦がれる長い平日と、お出かけ先で、世界を埋め尽くすかのごとく咲くネモフィラと、自分の「好き」の気持ちが重なり合うまでのドキドキする一週間を凝縮した連作と読みました。一首目の丸カッコの使い方がとても効果的です。そして一度「好き」と気づいたが最後、その気持ちはネモフィラのように強い繁殖力で心や体に広がっていきます。ところで、ネモフィラを検索してみたら「打たれ弱い」という記述をみつけました。どうやら根が弱いのだそうで、踏まれたり傷つけられたりするとすぐ枯れてしまうし、移植も難しいとのこと。このような特徴も踏まえて、本当にぴったりの喩えだと、改めて感心した次第です。春という季節も心情にマッチしていると思います。とりわけ二首目の言葉の選定と語順が、とてもよくはまっているなと思いました。

連作内の好きな一首と一言感想(掲載順不同)

抜け落ちた子音は溶けて手元では u iの音だけ仄かに光る

あきの つきさん @_akino_tsuki_「crescere」三首目

tuki umi そして suki の子音u  i とても美しいです。

桜には一瞥くれて海へ行く 風がわずかに湿度をはらむ
奈路 侃 さん @osorakukajin 「これから」一首目 

花嵐の予感に満ちています。

本当に逃げたい人に本当に逃げたいですかと尋ねる仕事
玄田生 さん @tori_chikushou 「さみしい」一首目

やるせなさがあふれてきます。

わたしよりあとに生まれてきたひとがやさしいほしに住めますように
きいろい さん @kiroi_iorik 「ついてない」三首目

自己犠牲のあきらめのなかにあって希望をつなごうという祈りの尊さ。

脇肉よ背中の肉よ腹肉よ集えや集えおっぱいになれ
藤原毛布 さん @moufu412 「としをとる」二首目

語り口と主張の勢に多くの心情が込められています。

雨の日もプラムひでおは軒下で紙芝居屋をやっております
白雨冬子さん @hakootokobook 「プラムひでお」一首目

プラムひでお という人に興味が湧いてきます。

解放の光によって散ってゆく桜をイヤな過去にはしない
空虚 シガイ さん @36aoRu1Re4K4AbR「花酔い」三首目

桜について、下の句のような視点を押し出した歌は新鮮でした。

胸覆う布地を剥がしおんなから少女に戻る四月の鎖
砂のような さん @12Uum6TUwy16431「四月の鎖」二首目

「四月の鎖」というタイトルも好きですし「おんなから少女に戻る」という観点も新鮮でした。

当面はあしたが来ると思ってるカラシばかりが増える納豆
みぎひと さん @okanocoelacanth 「納豆和え」三首目

納豆に着眼して恒常性バイアスを示している点が興味深かったです。

畑から自宅に入るときに脱ぐ靴の左右のバランスを見る
田中教平 さん @Tananakyon04 「畑から帰る」一首目

みんなが動作の流れのなかで気に留めずにやっている瞬間を切り取る視点を見習いたいです。

もうすべて忘れた頃に来た手紙知ってる文字で知らない住所
北乃銀猫 さん @Silbernekatze_ 「封」一首目

「知ってる文字で知らない住所」という表現はエレガントだと思いました。

おわりに

寄せられた64作品を通読して、改めて「三首連作」という構成が、いかに逃げのないものかを感じました。たとえば、三首のうちの二首がよいな、と思っても残りの一首で「紋切り型」に落ち着いてしまい、連作としての広がりが失われてしまったり、広がりをもたせようと多用な歌を並べた結果収斂させることができなかったり。そんな中で選んだ9作品は、いずれも三首で広がりや深みを現していたと感じました。

 それでは、こんな調子で、続けていきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。宇祖田都子でした。

短歌連作「ぼんやりしてた」の作り方を推敲前の状態から考えてみた

はじめに

「毎月短歌33連作部部門」において、斎藤君さんと、村崎残滓さんが高く評価して下さった連作「ぼんやりしてた」の投稿作品と、推敲前の状態を記し、どこを、どう、なぜ直したのか、を顕在化してみたいと思いました。なぜならば、私自身、どうやってこの連作を作ったのか分からないからです。選評で評価されたところと、改善指摘点をまとめ、そこから逆に、なぜそのようになったのかを検証してみたいと思います。

連作「ぼんやりしてた」

投稿作

「ぼんやりしてた」宇祖田都子

    三月の動物園で麻酔から醒めないこともあると言われた

    仰向けに浅く沈んだ浴槽が目玉になって全部が揺れる

    まなうらにどこか遠くの窓際を泳ぐ金魚の淡き色陰

    何色が好きかと訊かれ目の前の錆びたトタンの色を答えた

    引っ張って部屋の電気を消す紐が目覚めた時にまだ揺れていた

「ぼんやりしてた」の検証点(選評より)

良かった点

取り合わせ、見立て、着地の仕方など、高水準にまとまった作品だと思いました。(斎藤君さん選より)

一首目の惹きつける魅力がとても強く、(斎藤君さん選より)

二首目以降の歌の立ち方も良い(斎藤君さん選より)

タイトルのとぼけた感じも決まっている(斎藤君さん選より)

一首目は、「三月の動物園」と「麻酔から醒めない」という取り合わせがとても見事(村崎残滓さん選より)

二、三首目では水のイメージ、三、四首目では色彩のイメージを連続させることで、連作に心地良い「流れ」が生まれています。(村崎残滓さん選より)

五首目では「まだ」という二文字を使うことで、(中略)主体の生々しい違和感が感じられて、作品が綺麗に締まっています。(村崎残滓さん選より)

ここまでの出来事をあとから振り返ると「ぼんやりしてた」としか言いようがないのだろう、というのも非常に納得感があります。(村崎残滓さん選より)

気になる点として

「~した」で終わる歌が五首のうち三首、「揺れる/揺れていた」と同じ動詞で終わる歌が二首あった(斎藤君さん選より)

二首目と五首目が「揺れる」というイメージの重複。もっと長い連作ならば気にならないかもしれないが、五首という短い連作では、変えられるならば変えたほうがよい。(村崎残滓さんのスペースでの指摘)

「ぼんやりしてた」の作り方

上記の選評について、自分なりに、なぜそうなっているのか考えてみました。

① 一首ずつの独立度が高い

毎月短歌の連作部門へは、その月に作った短歌を一覧し、連作になりそうな短歌を抜き出すところから始めます。つまり、それぞれの短歌は作った時点では、連作にすることを全く考えていないことから、一首ずつの独立度が高くなるのだと思います。

②二首目以降の立ち方、流れがよい

連作になりそうかどうかの判断は、短歌が表している内容の近さで判断しています。「ぼんやりしてた」に関しては、「虚を突かれた瞬間・不鮮明さ。不確かさ。白昼夢みたいな感じ」でまとめています。このように選んだ際の、それぞれの短歌の原型はこのようなものでした。

推敲前の連作(六首)

三月の動物園で「ちょっと」って呼びとめられたような気がした
引っ張って部屋の電気を消す紐が目覚めた時にまだ揺れていた
仰向けに浅く沈んだ浴槽が眼球になり全てはゆらぐ
何色が好きと訊かれて本当はトタンの壁の錆び色が好き
まなうらにどこか遠くの窓際を泳ぐ金魚の淡き色影
麻酔から醒めないこともありますという声だけを手掛かりにして

連作用に推敲する

一首目・六首目

推敲前一首目は、推敲前六首目と合体させました。推敲前の一首目はさりげなさ過ぎると感じたからです。六首目とは「声を聞く」つながりがあり、動物園で麻酔の話は違和感もないと思いました。このように直すと初句にしか置き場所がないと感じました。

二首目

推敲前は、手術の麻酔のあわいの現実の記憶と妄想とが交錯する時間軸を想定していたので、二首目に比較的現実味のある「電気を消す紐」を、あまり重篤でない状況を示す意味で置いていましたが、推敲一首目に、推敲前六首目の「麻酔」を使ってしまったので、この「白日夢」的状況を抜ける状況を現す短歌が、この「電気を消す紐」しかなくなりましたので、これを五首目に移動します。

三首目

そのままで推敲後二首目に繰り上がります。

四首目・五首目

この順番は、推敲前と投稿作とで、「金魚」と「トタンの色」を入れ替えています。理由は多分、二首目で、眼球が浴槽の水面、という非現実なものに取って代わられているので、その目で見た幻想的な景につないだほうがよいと考えたからだったと思います。色鮮やかな金魚の幻影が、ゆらぐ でつながるという気もしました。

五首目

「トタンの色」の歌は推敲しています。推敲前は「本当はトタンの壁の錆び色が好き」という「言えなかった」歌でしたが、推敲後ははっきりと「目の前の錆びたトタンの色を答えた」という歌にしています。推敲後の三首目が幻想的なので、四首目はリアルさを重視し、それでいて「目の前の錆びたトタン」という状況の奇妙さは残して、リアルな夢、みたいな効果が出ればと考えたのかもしれませんし、単純に単独の短歌としての弱さを補完したかったのかもしれません。

流れと重複

連作になりそうな短歌を選んだあとで、連作の組む際の順番は、「時系列」の場合と「共時的」の場合に大別しています。「時系列」は比較的並べやすく、時計的な時間だったり、家を出て帰ってくるまでだったり、成長だったりです。「共時的」の方は、布石を打つように、点を置いて行って全体的な図を示すような置き方です。前者は「将棋的」後者は「囲碁的」などとわたしは呼んだりしています。「囲碁的」に組む場合は、あらかじめ「図」を決めてから連作用の短歌を作り始めるのは、おもしろくないと思っています。汲み上がったあとで、おもいもよらない「図」が現れるのを期待しているのです。そういう意味で、テーマを決めて連作を作るのは苦手です。

イメージの重複についても、あらかじめ連作を想定してないことから派生します。推敲段階で弾くなり、入れ替えるなりしていくべきでした。

今回の「揺れる」はそれだけでテーマになりそうな景ではあるので、そういう点で、テーマの重複だったという反省があります。「もっと長い連作なら」という指摘に納得しました。短いからこそ、テーマは絞るべきでした。

タイトルについて

上記のような作り方なので、タイトルは最後に決めています。当初の「虚を突かれた瞬間・不鮮明さ。不確かさ。白昼夢みたいな感じ」を、端的に表す言葉を探しました。なので村崎残滓さんと斎藤君さんの評はとてもうれしかったです。

読み手側としては、まず「タイトル」があり、その「タイトル」を携えてそれぞれの短歌を順番に読んでいくと思います。そして、再び「タイトル」に立ち返ったとき、始めの印象とどれだけ違って感じるか、を重視したいなと思います。それは、「納得」でもいいし「意外性」でもいい。そしてできればその新たな「タイトル」の感じで、もう一度連作を読んだとき、新たな発見があれば、なんて思います。

語尾など

わたしは叙景が好きなので、体言止めや、~見ていた。~していた。など「た」止めが多くなりがちです。文語なら選択肢も広がるのですが、口語となるとかなり悩ましいです。連作でいちばん避けたいのは「単調さ」だと思うので、定型・否定形・破調・文字明け、カギカッコや句読点、固有名詞、分かち書き、体言止め、連用句止め、などを効果的に散りばめつつ、飽きさせないように構成しなければと思う一方、延々と定型「た」止めに終始しながら、最後まで読ませる強さに対する野望をもっていたりもします。勉強していきたいです。

いただいた選評

 選評 斎藤君さん

 

note.com

一席

宇祖田都子「ぼんやりしてた」

取り合わせ、見立て、着地の仕方など、高水準にまとまった作品だと思いました。一首目の惹きつける魅力がとても強く、二首目以降の歌の立ち方も良いです。それでいてタイトルのとぼけた感じも決まっていると思いました。「~した」で終わる歌が五首のうち三首、「揺れる/揺れていた」と同じ動詞で終わる歌が二首あったのですが、一首一首の完成度がそれを凌駕していました。

 

選評 村崎残滓さん

note.com

金賞(1作品)宇祖田都子

まとまらない思索のただなかにいる主体が、空想から現実に引き戻されるまでの短い時間を詠った連作として読みました。静かな衝撃を詠んだ一首目は、「三月の動物園」と「麻酔から醒めない」という取り合わせがとても見事で、作品への興味を掻き立てる役割をしっかりと果たしてくれています。二、三首目では水のイメージ、三、四首目では色彩のイメージを連続させることで、連作に心地良い「流れ」が生まれています。五首目では「まだ」という二文字を使うことで、夢を見ることもなく気がついたら朝を迎えていたときのような、主体の生々しい違和感が感じられて、作品が綺麗に締まっています。ここまでの出来事をあとから振り返ると「ぼんやりしてた」としか言いようがないのだろう、というのも非常に納得感があります。
一首一首にしっかりとした力強さがあり、読者が流れるように読み進めることができ、その脳裏に自然と一つのテーマを浮かび上がらせることができていれば、それは連作としてかなり完成されているのだと思います。この作品はまさに完成された作品の一つといえるのではないでしょうか。そろそろ選者代わってください……

おわりに

方法論の全てを顕在化することはできないですし、顕在化できる部分だけがすべてだとは思っていません。だから、「論」として文章化したせいで、見失われてしまうものがあるのではないかという恐れもあります。

とはいえ、IまたはSというブラックボックスを侵さない、などというオカルトは否定します

わたしの作歌は、首が座っておらず、できばえにとてもムラがあるため、なんとか水準を保てるようになりたいという欲があります。一方で、やり方はやりながらその都度作っていくものだという気もしています。

チェックリスト化や、フローチャート化できる部分は、そうすればいいと考えます。けれど、わたしは、短歌を作っている「今」「この時」「この瞬間」の宇宙的身体的事象全てに影響を受けながら、歌を作りたいとも思っていますし、そのようにしか作れないのだと感じています。だから、一回一回、初めから苦労して作るのは嫌ではありません。ただ、本当に一回一回、無の状態から始められるのであればです。というのは、続けていれば慣れが出て来るでしょうし、手癖もできる。思考経路も限定されてくると思うから。

短歌を一首作るたび、自分は変わっていきます。それは短歌に限定しません。俳句でも詩でも小説でも、日記でも、とにかくコミュニケーションとは自己破壊に他ならない、という中沢新一の言葉をわたしは実感しています。

ただ、そのように変わっていくことに抵抗する恒常性というものが、マンネリを呼ぶと思うのです。

だから、方法論とは、このようなマンネリに陥らないためのものなのだと、考えます。

今回のブログは、「ぼんやりしてた」がいかに「ぼんやりしてた」のかを確認する、わたし自身の忘備録です、いつだって、わたしはわたしの忘備録なんですけれど。

 

最後になりましたが、「毎月短歌」をいう場を用意してくださった深水英一郎さん、選者を務めていらっしゃる皆様に、感謝いたします。

 

長文、失礼いたしました。それでは。

歌集『遠距離チャーハン』白石ポピー から好きな短歌を

はじめに

文学フリーマーケット 東京42

2026年5月4日 於 東京ビッグサイト 1-4ホール

購入ブース 「おのぎとポピーのこのくらい」X25-26

 

好きな短歌と、少しだけ感想を

第一部「遠距離チャーハン」

地方創生

マチュピチュとミシシッピ川があいしあいマチュチュッピ川がうまれました

まず、楽しい。それから、「マチュピチュ」と「ミシシッピ」を合成する音韻感覚の鋭さに気づきます。「マチュチュッピ」という合成語は、「ミシシッピ」の構造に「マチュピチュ」を当てはめたものだということは分かります。「ミシシッピ」の構造とは、「ミ」「シ」「シ」「ッ」「ピ」という、二音目と三音目の重複とその三音目が促音であること。さらにすべての子音が「i」であることです。子音の「i」の適用は難しいですが、「マ」「チュ」「ピ」「チュ」を当てはめると、「マチュチュッピ(チュ)」を得ることができます。「ピ」で締めることができることはとても重要なことです。
では「マチュピチュ」の構造を「ミシシッピ」に当てはめたらどうなるのか、しばらく考えてみたのですが、「ミシピチュ」「ミシシピチュ」「ミシュシピュチュ」とか、うまくいきません。実にさまざまな条件をクリアし自然に正解を導き出せる語感をもちたいと思いました。

私にも口内炎を見せてくれた井出くんの像が駅前に建つ

「私にも」「口内炎を見せてくれた」「井出くん」という提示で「井出くん」の人となりだけでなく、「私」と「井出くん」の関係、「私」の置かれている立場の全てを想像できる材料を網羅しています。さらに小学生の頃の経験なのだろうと推測する余地もあります。そういう「井出くん」であれば「像が駅前に建つ」ような立派な人になるのは意外ではない、けれども、あの「井出くん」がねぇ、という身近だった人が遠くなるさみしさ、少しの嫉妬心なども感じられ、二人の歴史を、夕暮れ間近の駅前ロータリーで駆け抜けたような想いがします。

ゴダール論

人前で放尿をする簡単な仕事です。ただタダになります。

エロスでしょうか? することは「簡単」ですが、精神的に人としての何かを越えなければならない行為である気がします。見返りは「ただタダにな」るだけ。何がタダになるのかが書かれていないところが効いていると思います。いや、もしかしたら、「人前で放尿をする簡単な仕事です。」が、「ただ」(報酬は)「タダになります。」とも読めます。そうすると、ボランティアということになります。書いてあることは全て理解でき、書かれるべき何が書かれていないのかも明確であるという点で、とても分かりやすく、調子も明るい文言なのですが、引きずり込まれそうな底知れぬ闇を感じます。昔、どこかで読んだ漫画のエピソードで、女性が無料で飲食できるレストランがあるのですが、店中に鏡があり、それがマジックミラーになっていて、飲食をする女性を凝視したい性癖の男性が料金を支払っている、というのですが、果たして。

ていねいなくらし2

恋人がヘレン・ケラーの"WATER!"のように耳鼻科で「デジャブ!」と叫ぶ

とても勢いがあっておもしろい歌だと思いました。上の句の直喩の生々しさ(あれ、だけどヘレン・ケラーの"WATER"をどこでわたしは見ていただろう?)「耳鼻科」で「デジャブ!!」の取り合わせの心地よさ。音数を度外視して考えると、眼下やレントゲン科では、近すぎる。外科や消化器科では生々しすぎる。歯医者では口をあいていて叫べない。だから「耳鼻科」しかない、と思えてくるところ。診察中、鼻に空気を送り込むブロアのような器具を使われたとき、こらえきれずに洩れた音が扉越しに「デジャブ!」と聞こえたのかもしれませんが、これはもう、言葉通りの「デジャブ!!」がおもしろいです。これはもう、声に出して叫びたい短歌です。

箸置きといえばなんでも箸置きといえる気がして見る君の指

箸置き。日本の食文化の豊かさを示す品だと思います。箸先を卓から少し浮かせおきさらに転がらないようにする機能を満たせば、どのような素材でも形状でもOK.紙、木製、陶器、金属と、幅広く活用できますし、デザインの自由度も高いです。食事中、ふと箸置きに目を止めて、箸置きの形状の自由度に気づき「なんでも箸置きといえる」という想いと、前に座っている「君」の、卓上に置かれた指がオーバーラップして、箸置きと「君の指」に交互にクローズアップされていくのです。全ての音が消えて、ここがどこかも失念して、箸置きと指が、箸置きと指が、箸置きと指が、重なってグルグル回り始めたとき『ねえ、ねえって。大丈夫? どうしたの』という「君」の声に引き戻されるというショートムービー。親しい人の身体の一部をオブジェ化する、川端康成的エロスも感じます。たとえば、「君」の隣には「君」の両親が座っていたりする、そんな緊迫した状況であったかもしれない、などと想像するのです。

第二部「窓の底」

窓の底

群青の果実の床をころがるを頬で感じるだけの白昼

群青の果実で床に転がりそうなものといえば、「ブドウ」や「ブルーベリー」が思い浮かびます。それはあまり音を立てず、振動を立てることもなさそうですが、それらが「床をころが」っていることを「頬で感じる」という状況は、フローリングに直に、うつ伏せの状態で横たわっているのだろうか、と想像しました。白いレースのカーテンがふわりと揺れる「白昼」の心地よいリビングダイニング。しかし、床にうつ伏せとなると、にわかに不穏な感じもしてきます。卓上の「果実」がどうして「床をころがる」ことになったのか。風のせいだけでしょうか? 白昼の開けっぱなしの窓から入ってきたのは風だけだったのでしょうか。

すきまかぜ

さるすべり幹をつたった雨粒を指にうつして蕾に垂らす

通っていた小学校の教室の窓の前には池があり、その池の水面へ張り出すさるすべりがあったことを今でも鮮明に覚えています。その幹はすべらかで人肌のようでした。そのなめらかな肌へそっと「指」を這わせて「雨粒」を「指にうつして」それを「蕾に垂らす」に、耽美を感じます。叙景だけで成り立っている短歌ですが、すべてを暗喩でとらえることもできる。とても好きな歌です。

しづけさを立ち上がらせる歯触りのこの果物の名は「なし」という

定型の魔力と音韻が相まって、なしを齧る口元のクローズアップのみで宇宙を感じさせるとてもすごい歌だと感じました。「しづけさを立ち上がらせる」「歯触り」という把握、「この果物の名は「なし」という」という完璧な下の句。なしという果実の透き通るような生白さや、シズル感。リンゴほど密ではないことからくる空隙の感じ。この句もまた耽美な性を暗喩として感じます。

水の降る星

つくしこわい見れば見るほどつくしこわいうちの近所で人が刺された

春先に夥しいつくしの生える土手を見て、つくし前もつくし後も、そこにそんなに生えていることに全く気づかなかったことに唖然とします。「つくし」は「つくしんぼ」というくらい愛されていますが、実物をよく見ると、頭のところはトライポフォビアになりかねないし、ハカマも菌類みたいでちょっと怖い。炒めて食べたりしますが、摘み取ってザルに大量に横たわっているのをみると、植物なのか昆虫なのか分からなくなりそうになることもしばしばです。この短歌を読んで、普段は気づかないけどたくさん生えていた「つくし」みたいに、顕在化して初めて分かる「殺意」や「事件」がたくさんあるという隠喩的恐怖ととることもできそうですし、近所の野原で人が刃物で刺されてそのときの血がついたつくしを見てしまって、血まみれの人間の記憶と直結してしまった、という風にも読めると思いました。「つくし」は日常性に分類されるようでいて、現実には案外非日常的なものなのだという認識のギャップ、つくしんぼ、といイメージとのギャップ。これまで、イメージとしてふんわりととらえていた「つくし」から、現実に在る、この(ここにある)「つくし」に変えた何かが「人が刺された」と関係しているのかなと思いました。

さいごに

 とても楽しい歌集だと笑顔で読んでいたのです。設定が奇妙だったり、展開がシュールだったりして、退屈な日常もこんな風に捉えていけば楽しめるな、と思いながら。だけど、もう一回転して、共通認識されていると思っていたことを共有できない「他者」と出会ったとき、笑顔は凍りつかないだろうか。楽しいの「笑い」から、理解不能をやんわりと示す「作り笑い」に。あなたの心は理解不能だけどとりあえず、敵意はないから、あなたも攻撃はしないでしょうね。という防御の笑いへ。ギャグ・シュールには全て、この「不穏さ」があり、常に有事の一歩手前の不安定さにあるのだと、なんだかヘンかもしれませんが、そんな感想をもちました。けっして、不快だとか、読後感が悪いとかということではないので、誤解なきようにお願いします。帯に書かれた笹公人の「凶暴にして繊細。野蛮にして紳士。/彼の作る短歌は、いつだって凶器の味がする。」は、もしかしたらこういう感覚のことなのかなと、これは保留中ですが考えています。

追記

ギャグ・シュール・ある方向性をもった見立て(飛躍)の短歌を読む際、穂村弘さんの『シンジケート』を思い出しています。とくにわたしは「寺山修司風」「石川啄木風」「俵万智風」などに分類してしまいがちなので、そういう乱暴な括りに留まらず、それらとの差異を手掛かりに、目の前の歌と向き合って鑑賞できるようになりたいと思っています。

とてもうれしい サイン本です。

 

文フリ東京42で購入した『日々を泳ぐ』『#小柳とかげを編む』『少し、祈る」小柳とかげ より好きな短歌を

はじめに

文学フリーマーケット 東京42

2026年5月4日 於 東京ビッグサイト 1-4ホール

購入ブース 「短歌とガラス」H23.24

『日々を泳ぐ』『少し、いのる』『#小柳とかげを編む』

好きな短歌と、少しだけ感想を

その前に一つだけ。ご紹介する三冊はすべて「短歌」と「写真」との組合せで構成されていますが、このブログでは短歌の感想のみを記載しています。なのでぜひ、それぞれの冊子を実際にごらんいただきたく、お願いいたします。

『日々を泳ぐ』小柳とかげ

帰りみち乾いたところだけ踏んで
習った歌をそらんじてみた

帰り道に水溜まりがある、という状況はもう希少なのかもしれません。今は、未舗装道路のほうが珍しいくらいですもの。この「帰り道」もアスファルト道路とすれば、雨が上がって乾いた場所が現れてきているくらいの時分でしょうか。急速に雲が晴れていくとき、濡れたアスファルトは合唱曲のようにきらめいて、下校する子は慎重に、「乾いたところだけを踏んで」いきます。世界が奏でる光の歌に対抗するかのように、「習った歌をそらんじ」ながら。

輪郭を与えられたものたちは死に方を知らず海へと向かう

存在とは分かたれることであり、分かたれることは輪郭をもつことです。どのように分かたれたのかを知らず、どのように消えていくのかもわからない。輪郭を与えられたことと、命を得たこととは別のことですから、命を絶つ方法は知っていても、輪郭を捨てるという死に方は分からないのだと思います。だから海を目指します。もっとも輪郭が少ない水平線までの空間に自らを拡散する錯覚に、安楽な死の快楽が近似することをわたしたちは知っています。

朽ちていくだけのものが美しいって
造花が笑うパチンコ屋前

シチュエーションが完璧な歌だなと思いました。造花やパチンコ屋は、ある意味で「永続」を希求するものと感じます。造花やパチンコ屋に美しさを感じることはあまりありません。はかなさ、というのは美しさに欠かせない要素なのだと思います。一方、「美は永遠」という言葉も存在します。しかし「永遠は美」と言い換えることはできません。「朽ちていくだけのものが美しいって」の上の句を、始めは造花の自虐ととっていましたが、今はそれとはまったく逆の、「朽ちていくだけのものが美しいってwww」という反語的感情ではないかと思っています。「朽ちていくものだけが」ではなくて、「朽ちていくだけのものが」と言ってるところが重要なのだと思います。それは生花であり、動物であり、人間そのものです。わたしは、後者で読みたいなと思います。パチンコ屋までゲラゲラ笑う造花。「朽ちていくだけのものが美しい」という価値観そのものを笑い飛ばしているパチンコ屋前の情景として。

今ここで私が車に轢かれたら
買った氷が解けてしまう

コンビニで袋に入った氷を買うのはどんなときだろうと考えました。現実には家の製氷皿でせっせと氷を作っているので、買うことはあまりないのですが、それでは追い付かないくらいたくさん氷が必要なのは、みんなで飲む前とか、かき氷大会の準備をしているとか、何か楽しいことの前ではないだろうかと思いました。役割分担で氷を買う係になった私は、もしかしたらこの集まりには乗り気ではないのかもしれません。グループの主要メンバーではない、もしかしたら便利に使われている立場であったとしたら、「車に轢かれた」「私」の心配より、「買った氷が解けてしまう」ことを怒るのではないか、というのは救いがなさすぎますね。本当に、ふとそう気づいただけだと、そういうふうに読みたいなと思います。この気づきから、「だからちゃんと帰ろう」までの空白。それだけ。それだけ。

柔らかい光はゴミに輪郭を証明写真機にも朝が来る

「柔らかい光」に照らされた「ゴミ」と、「証明写真機」の並置ととると証明写真を撮影するときの照明に照らされたわたし=ゴミという図式が成り立つように思えます。「柔らかい光」とは「朝が来る」ときの黎明の光とすれば、その光はゴミに輪郭を与え、証明写真機そのものを照らしているという情景になります。「輪郭」というのは先の短歌に出てきていますね。わたしはそれを「存在」と読みました。「ゴミ」に「輪郭」という言葉は、「ゴミ」のゴミ性ではなく、与えらえた「輪郭」に比重があると考えました。冒頭に書いた「ゴミ」=「わたし」の考え方は修正しなければなりません。証明写真機の光によって「わたし」も「輪郭」をもつ、つまり「存在」することができると。それを「朝」と呼ぶ。希望があります。

『短歌とガラス 少し、いのる』小柳とかげ 猫とステンドグラス

この冊子では、ステンドグラスの不定形のガラスをペンダントにしたもの(の写真)と短歌とが対になっています。

慰めの言葉は桃のようだった

素手で触っちゃいけなかった

短歌というよりも短詩と感じる歌でした。「慰めの言葉」は繊細な心遣いでできているので、渡し方や受け取り方に粗相があると、桃のようにすぐに傷んでしまいます。この短歌で、「素手で触っちゃいけなかった」と後悔しているのが、「慰めの言葉」を渡した側か、受け取った側か、その両方に思いを馳せています。

二時過ぎのお風呂に浸かる
斧落とす泉はどんな色だっただろう

あえて「二時過ぎ」というからには、午前二時だろうと思いました。遅い時間に一人湯舟に浸かっているとき「斧落とす泉はどんな色だったろう」と、ふと思う。「泉」は樵が斧を落とす寓話のあの「泉」のことで、その泉の色を気にしたことなんて一度もありませんでした。これは、答えも理由も必要のない、完結した疑問なのだと思います。湯気の彼方へこのまま消えていくのがよいのだと思います。

透かし見る世界は黄色
罪のない人の
線香花火落ちない

「黄色」は注意、と刷り込まれている身からすると、誰の線香花火がすぐ落ちるのか見極めたほうがいいと思いました。一方で、「罪のない人の/線香花火は落ちない」という言葉そのものが「黄色」なのかもしれないとも思います。刷り込みです。仲間で線香花火をやっている中で、「この中に裏切り者がいる」という色眼鏡で見ている人がいて、これはその人の短歌なのかもしれません。

夕立に
溺れていける気がしてた
赤い残映


「生きてていいの?」

シュールな映画のワンシーン。を感じました。「赤い残映」というフレーズがひじょうに強く、「夕立」。池の水面を激しく打つ雨。その池にゆっくり沈んでいくわたし。打ち付ける雨に弾ける水面。手で掻く池に生じる泡と波。大きく吐きだす息の泡。沈んでいくとき見える水面。それらすべてに「赤い残映」が揺らめいて。救い出された岸にあおむけのわたしを照らす赤い残映。「生きてていいの?」 という一連のショートフィルムが彷彿しました。「わたし」は赤いワンピースを身に着けていて、と、空想が暴走してしまいます。

もう夏も終わるし
猫と消毒とブルーハワイで
窒息したい

「猫と消毒とブルーハワイ」という魅力的な取り合わせ。「猫」は黒猫よりロシアンブルーの気分です。「消毒」はコロナ禍を経た世界という感じ。、「ブルーハワイ」はかき氷の定番であり、実際の「ハワイ」を想像させてくれます。残された僅かな夏を、好きなものばかりで満たしたいという切なる希望の歌と読みました。「猫と消毒とブルーハワイ」素敵です。

 

この星の最後の杭を持っている

だから多少は弱くてもいい

SFセンチメンタルという印象。「この星の最後の杭」は切り札になるものなのだろうと想像します。「杭」を打つのは、何かを支えるため。目印にするため。吸血鬼にとどめをさすための三つの場合に限定されますが、下の句に合いそうなのは「吸血鬼にとどめ」でしょうか。「杭」に絶対的な力があるので、それを託された人間のほうは多少弱くてもいいんだと。真ん中の一行空けの気持ちには、聞いている人の「?」が入るのかもしれず、「だから多少は弱くてもいい」の後にも、同じく一行空けがあるのかもしれないと考えたりします。あ、「この星」の崩壊を防ぐために打ち込まれた「最後の杭」を自分がしっかりと支えて「持ってる」「だから(この杭が)多少は弱くてもいい」という状況が思い浮かびました。ただ、そうは言うものの、わたしは書かれているままを受け取って、それぞれのフレーズが醸し出すスペースオペラの気分を満喫しているのです。

富士山は何色だろう
常識が揺らいでいく夜、自販機の音

色を問う歌。「富士山」は青で描くことが多いですが、赤富士というのも有名です。「富士山は何色だろう」と疑問をもつことはあまりないと思います。だからこそ、そういう疑問が浮かんでいる状況が、すでに樹海的なのではないかと思うのです。「自販機の音」といえば、精進湖付近の道路サイドにあるちょっとした砂利の広場に、公衆トイレと自販機があって、それらは人が誰も来ない真夜中であってもずっと、そこのあるんだなと思うと、不思議な気持ちになりました。「自販機の音」は、自分たちが買った音では、ないのでしょうか。自分たちのほかには車もなく、誰かがいた気配もなかったのに、背後の自販機にガゴンッとジュースが落ちる音が響いたのです。チャリンチャリンと釣銭が落ちる音がしたのです。「富士山は何色だろう」という思いがけず取りつかれたこの疑問に正解できなければ、元の世界に戻ることはできないのかもしれません。

『5周年特別企画 #小柳とかげを編む』

この冊子は小柳とかげさん撮影の写真100枚と短歌50首を、それぞれ編者の感性で選択してフォントやレイアウトも自由に決めて並べ、小柳とかげを編む、というものです。凄いです。同じ短歌でも組み合わせる写真が異れば受ける印象は変わります。以下に挙げた短歌の後ろの()は、編者名で、他の編者のページにも同じ短歌はあったけれど、わたしが好きな組み合わせだった、という意味です。

ならいっそ、君を呪いたかったな 雑木林を駆け抜けて冬(OJAICO編)

二句目字足らずの、五・六・五が、心残りな感じにマッチしていると感じました。「ならいっそ、」の読点から、「君を」、「呪い」、「たかたったな」と区切ってよむと、とてもリズミカルなのは、走っているリズムがあるからでしょうか。そしてこの初句の「ならいっそ、」が、あまりにも豊かです。

人生をドラマチックにしたいなら冬の朝を歩けばいいの(キョウスケ編)

下の句六・七ですが、冬の・朝をと区切って読むと全く自然であるのみならず、「冬の」「朝を」とそれぞれを強調している読み方になって、納得です。

受付で名乗りたい名があったけどひとりで滅ぶトリケラトプス(たかたの編)

とても好きな歌です。「ひとりで滅ぶ」「トリケラトプス」の押韻がすごく気持ちがいいです。わたしはこの「受付」を「小児科」でイメージしていて、「受付で名乗りたい名」という観点で、名前を考えたことはなかったなと思いました。「ひとりで滅ぶトリケラトプス」はなんとなくラジオネームにしてみたいなと思ったりもします。(次はラジオネーム「ひとりで滅ぶトリケラトプス」さんからのリクエストで、みたいな)恐竜は結局ぜんぶ滅びてしまいましたが、ひとりで滅ぶものとして、図鑑を見ていてどことなく、不器用でさみしそうに見える「トリケラトプス」をもってくるところ好きです。

愛してるってことにしておくからさ、君も気楽に好きって言って(眞琴編)

「愛してる」「ってことにして」「おくからさ」で、定型なのですが、初句を普通に「愛してるって」の七で読むと上句全体に少しぶっきらぼうな感情を感じます。(本当は愛してないけど)「愛してるってことにしておくからさ、」という感じです。そして下句では相手に、(だから)「君も気楽に好きって言って」と勧めているのですが、上句と下句とでは、なんとなくつり合いが取れていないというか、「愛」を担保するから「気楽に好きって言」えるでしょ。というわけにはいかない気がするのです。ここでは対象が何なのかが気にかかります。「君も」の「も」が重要なようです。たとえば、おおっぴらに「好き」と言いにくい歌手や芸能人や食べ物などがあって、それをわたしも「愛してる」ってことにしとくから、君も軽い感じでカミングアウトしちゃいなよ。みたいな感じだと、意味付けはできそうですが、例によってわたしは、わからない状況そのものが楽しく好きだなと思って、読んでいます。「君も気楽に」っていうところ。本当に「気楽」な人なんだなと思わせておきながら、実はすごく身を削って、相手が楽しめるように気を使っているんじゃないか、と感じました。

おわりに

わたしは、どんなものでも自分に引き付けて読む癖があって、小柳とかげさんの短歌はことさら、妄想の暴走をとめられなくなるくらい豊かな世界に開かれていました。短歌を通して世界を眺めた時に、普段自分では見ない角度や色の光に浮かび上がる不思議な情景に我を忘れる感じです。ブースにはガラスのアクセサリーの販売もありました。買えばよかったな。

 今後も、多方面でのご活動を楽しみにしております。

 

 

 

 

 

 

歌集『Ushinshitsu 右心室』はるかぜ より好きな短歌を

はじめに

文学フリーマーケット 東京42
2026年5月4日 於 東京ビッグサイト 1-4ホール

購入ブース 「文芸カトルカール」G35.36


歌集『Ushinshitsu』はるかぜ

好きな短歌と、少しだけ感想を

シアーブラウス破れた朝は吹っ切れてひかる季節にからだを放つ

初読では、夜はげしく愛し合った翌朝、シアーブラウスが破れているのに気づいて、少し後悔していたこともなんだか吹っ切れて、その破れ目から脱皮するみたいに艶めく肌を朝日に晒していくんだ、というふうに読んでいたのですが、改めて何度か読んでいると、性行為とかはべつにどうでもよくて、朝、袖を通した時にブラウスが破れて、シアーブラウスというからには透け感のある薄い素材だと思うので、そういうものでキャミソールとかをうっすら隠すようなことはやめて、露出していこう。みたいなきっぱりとした心意気として読んでいます。風光る、初夏の気候の朝でしょうか。

Array [ young ]

看板は赤い文字から消えてゆき命令口調だけが残った

「ゴミを捨てるな」の、「ゴミ」とか、「私有地につき通り抜け厳禁」の「私有地」とか、固有事項の目立たせたい部分が消えてしまって、「捨てるな」「通り抜け厳禁」とかという一般論の命令形だけの看板になっていて、それでも意味はわかる。むしろシンプルな命令形だけで心地よくすらある、という感じがします。因みに、こういうのって、「赤だけ色あせ看板」というらしいです。

長時間水に浸した米の白言いたいことはなんだったかな(白い)

夜寝る前にお米を研ぎ、タイマーで朝炊き上げる習慣ですが、あまり水につけて置くのはお米にはよくないそうですね。「長時間水に浸した米の白」とは、わたしにとっては夜、炊飯器のタイマーを入れ忘れたことを意味していて、朝、ごはんの支度をするとき、やけに静かな台所で「あ、やっちゃった」と炊飯器の蓋を開けた時に対面するものなのです。白いです。本当に白い。この体験に下の句が結び付けられたとき、昨夜、言いたかったことが、伝えたかった相手が帰ってこないとか、疲れてると言って早く寝てしまったとかで言えなくて、朝まで持ち越してしまっている、という状況が浮かびます。蓋をあけて「あ」と思う。そのショックで言いたかったこともトンでしまう。たぶん、昨夜の感情よりも、だいぶん柔く、丸くなってしまっている実感もあります。

さようなら小さな少女が抱いているリカちゃんの足は見る用の足(白い)

「さようなら」が重要と感じました。「見る用の足」はこう書かれると特異なことに感じますが、リカちゃん人形はたぶん自立しては立てないので「立つ」ための足ではなく、人形にとっては、等身を美しく見せるための足といえるでしょうから、見る用の足と言って間違いないと思います。そこで「小さな少女」の「小さな」が少し気になってきます。「少女」でも意味は通じるのにあえて「小さな」があることで、この「少女」そのものを「人形」のように見ていた部分があるのではないかと。そうなると初句「さようなら」は自らが「小さな少女」に触れることができなくなり、ただ、遠くから見ていることしかできなくなったのだ、と別れのシーンが浮かんでくるのです。「小さな少女」の足は自立し歩くための足です。その足の行く先を、わたしはもはや見ていることしかできないのでした。

Array [ inside ]

骨折をしたあと行った海だから欠けてる貝も拾って帰る(パレード)

親近感が湧いたのだろうなと感じました。レントゲン写真の骨が欠けていて。「骨折をしたあと」「海」で「貝を拾って帰る」ということは、骨折の処置がすんだ帰りに海に寄ったのかなと思います。骨折から海まではあまり間が空いていないのではないかと。いや、もしかしたら入院していたのかもしれないと今思いました。病院の近くに海があって、退院手続きの後、家に戻るまえに渚に立ち寄っていたのかもしれません。欠けている貝殻を拾うことは、ふだんはないでしょう。完全な形のものが美しいのであって、欠けていたら傷物です。でも骨折の後では、欠けているからといって見捨てていくことができなくなった。欠けるには欠ける理由があり、その理由を知ることはできないかもしれないけれど無視することはできない。それは消せない事実であり、今、ここにいることに連なるものだからです。

Array [ past ]

五で割れる日に献血にいく彼の傘をひらけば骨が折れてる(音楽を観る)

五日、十日、十五日、二十日、二十五日、三十日。献血のスパンはわりと長いので、五で割れる日に毎回できるものではないようですが、彼は献血可能になると必ず「五で割れる日に献血にいく」といいます。なぜそう決めたのかはここでは触れられていませんが、ただその「彼の傘をひらけば骨が折れてる」という描写で締められています。彼が献血に行ったのでしょうか。ああ「五で割れる日」か、とわたしは思い、玄関先においてある「彼の傘」を何気なく開いてみると「骨が折れてる」なと。いや、彼が献血にいっているとき、雨が降り出したのかもしれません。迎えに行こうかなと傘を取出して開いてみたら「骨が折れてる」ことを知った。「血」と「骨」が響き合い初句の「割れる」が相まって、なにかしら不穏な空模様が似合いそう、ということから「雨」の日として読んでみました。予兆、予感。虫の知らせ。そんな感じがしました。

Array [ running ]

こんなにも液晶画面に絶景をざつに並べてヨドバシカメラ(萱島駅)

大好きです。家電量販店でよく見る光景を手際よく切り取っていて、これが正解、と思います。「ざつに並べて」が最高の仕事をしていると思います。地球が数億年かけて創り出した絶景を、大小のうすっぺらい液晶に雑に消費している感じ。まさに現代文明の象徴と思います。

なんにでも救われたっていいからね 飼ってた犬の横顔の石(山折り)

愛犬と死別した悲しみの内に、石ころがその愛犬の横顔のシルエットそっくりだと感じる。そのことに多少なりとも救われる。上の句の優しさは、現実の厳しさを織り込んだうえでの許可であり許しだと思います。そう言ってくれる人が近くにいることが大切だなと感じます。自分ひとりなら、「飼ってた犬の横顔」に見える「石」をみてまた泣いてしまうセンチメンタルをきっと卑下してしまうから。いいんだよと。そういう面影ひとつひとつに救われていいんだよと言ってくれる人に救われているのです。

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遠巻きに双子を見ている公園の撤去されたる遊具の余白(そういう自由)

「双子」はつい見てしまいます。見ていることに気づかれない状況であればなおさら、じっと見てしまいます。そこに「遊具が撤去された」「余白」が並置されています。それは二基あったシーソーの片方かもしれません。「撤去され」る「遊具」とは、分かたれた「双子」のイメージを思わせます。一揃いの「双子」と不揃いの「遊具」。「撤去」とは暴力をイメージさせます。ここで、冒頭に立ち返ります。なぜ、わたしは「公園」で「遠巻きに双子を見ている」のでしょうか。監視しているのでしょうか。何かの機会を狙っているのでしょうか。そんな不穏さが垣間見えてきます。

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駅前で描く似顔絵 桃太郎像を背にしてゆく人々の(空白地帯)

「駅前で」「桃太郎像を背にして」「ゆく人々の」「似顔絵」を「描く」というふうに散文にしてみました。情景はこのように捉えられるかなと思いました。「似顔絵」のモデル(お客さん?)には作者の背後の「桃太郎像」を見ていてもらって、その顔を描くのです。短歌としては「駅前で描く似顔絵」に一番の感情の中心があると思うので、そこで似顔絵を描く、という行為に緊張、興奮していることが伝わります。初めてなのか、久しぶりなのかは分かりませんが、路上パフォーマンスの高揚感が伝わってくるようです。

イベントで描きませんかと誘われてそれから何度か無視した電話(同上)

前の短歌に呼応して、イベントの一環だったのかなと想像できます。この「空白地帯」としてまとめらえている短歌を読んでいると、イベントでの出来事や流れ、感情の動きが表されていると分かります。似顔絵を描くことは主催者には知られていて、声をかけてもらっていたのですね。なにか、インターバルを置かなければならない出来事があったのかもしれません。

ここにしか居場所はないかもしれなくて紫キャベツの入ったサラダ(同上)

人は居場所をどう見つけるのか。どうやって確保するのか。「ここにしか居場所はないかもしれな」いという覚悟目前の覚悟を自覚するランチのサラダに、紫キャベツを見出したこと。ここに詩があると、わたしは思いました。詩は、比喩とか象徴とか言い換えとかではなくて、無条件のリンクで「啓示」に近い何かなのかもしれません。

おわりに

クスノキは駅のホームの真ん中で全部の全部を受け入れていた(萱島駅)

今、ぱらぱらとUshinshitsuをめくっていて、なぜこの歌を採っていなかったのかとあわてて追記しました。これははるかぜさんではないか、と思いました。わたしは、あとがきにある「短歌への姿勢」に全面的に共感します。それは存在の、つまりは詩の、不思議につながるものだと感じています。

 

 

歌集 『オブライフ』青野 朔 より 好きな短歌を

はじめに

文学フリーマーケット 東京42

2026年5月4日 於 東京ビッグサイト 1-4ホール

購入ブース 「文芸カトルカール」G35.36

歌集『オブライフ』青野 朔

 

好きな短歌と、少しだけ感想を

二度値下げされたカツ丼このあとは何を言ってもひとりごとです(いただきます)

閉店間際、スーパーの惣菜コーナーの「カツ丼」を、わたしは愛します。一枚目の値下げシールのヘリのところがわざわざ見えるように二枚目の値下げシールは貼られています。売れ残ってしまいそう。もはや、カツ丼としての見た目や味といった本来の持ち味で誰かを惹きつけることはできず、自らの価値観を削って泣く泣く値下げしてもなお、誰にも見向き去れなかったのだから、結局、わたしのことなんてだれも気にしてくれないし、何を言っても「ひとりごと」だったんだ。いえ、初めからわたしはずっと、誰にも相手にされない「ひとりごと」を言い続けていただけなんじゃないか。なんて、見つけるのが遅れてごめん。わたし、買うよ。

2号車の2番ドアから降りる時 かもしれないを大きくまたぐ(日々)

日常なのです。電車のなぜか決まった場所に乗る習慣なのです。それは日常的に電車を使っていた当時のことを想い出しても確かなことです。安心するのです。同じ車両の同じ扉は。面識はないけど、だいたい同じ顔が乗っているのも安心です。電車とホームの隙間。だけど日常はけっして地続きではなくホームから電車に乗るときも、降りる時も、決定的な亀裂をいつも跨ぎ越していることに、ある日ふと気づいてしまう。隙間から顔がのぞいていた、といえばホラーになりますが、じつはただそこに隙間がある、というだけのことのなんと恐ろしいことか。この歌ではとくに、電車からホームに戻る瞬間の不確かさに着目していると思います。エレベーターを降りるときと似ているのかなと思います。そこは「死」よりも微妙で気持ちの悪い日常であるかもしれず、仮の居場所でしかなかったはずの電車の車内こそが、安全地帯だったのだと思われてくるのです。

思い出のいやなことばかり鮮やかでまち針つけたままのスカート(同上)

目立たなければなりません、「まち針」は、抜き忘れたら危険ですから。抜き忘れてしまったのでしょうか。わたしたちはどうやって、日常の断片を一枚の年表として縫い合わせていたのでしょうか。深く心に残った記憶のひとつひとつに立てられるピン。楽しい「思い出」ばかりで仕立てられたらよかったのだけど。と思うと、それは抜き忘れたのではなくて、抜き取れなかったまち針なのですね。本当は、そんなところにピンを立てたくなかった。傷ついたことの記憶に鮮やかなまち針が、抜き取ることができないまま残っている。それが「スカート」だというのです。さわやかな風を孕んだスカートにのこった針が、忘れたころに執拗にチクチクとわたしを刺し続けます。

仕事場のゴミ出すわたし裏口でほんの一秒踊って戻る(同上)

この「ほんの一秒」こそが、「わたしの永遠」につながる時空なのだろうなと感じます。その一秒で解放される精神があるのだと思います。そんなことをしている自分に笑ってしまっているかもしれない。けれどその笑いで頑張れるのだと信じます。わたしは「裏口でほんの一秒踊」っている人を偶然に見掛けて、その瞬間の笑顔と、すぐに真顔になるところを見ながら、でも足取りだけは踊りの余韻をわずかに残して扉の中に消えていく人のことを、大切に心にとめておくと思います。

ねこみちと呼んでた道を久々に歩けば半分くらいの長さ(ショートトリップ)

思い出の中で小学校の校庭はほとんど地平線ほどの広さをもっていて、だから久しぶりに小学校をたずねたときの拍子抜けするほど小さな校庭に愕然としたことを想い出したり、初めての道を行くときは全てが不安で長い道のりだったのに、帰りは本当にあっという間でびっくりしたりしたことも想い出します。「ねこみちと呼んでた道」って魅力的ですね。とても小さな裏路地を彷彿とさせます。そういう道って、幼いころに偶然見つけた近道だったりします。学校までの、友達の家までの、川原までの、幽霊屋敷までの。そこを「久々に歩」く状況に、わたしはひかれます。なつかしさと共にそこを辿っているのだろうなと。そしてその「ねこみちと呼んでた道」の先には、当時とかわらぬ誰かが、何かが、待っていたらいいなと、思います。

今朝見てた天気予報のまちは晴れ水のレシートをきれいにしまう(連作『とちゅうまで乗ってく』より)

「天気予報のまちは晴れ」という表現が独特だなと感じました。旅の途中で投宿した宿の朝。そういえばわたしは、旅先の朝のローカル情報番組を見るのが好きです。その地に住む人にとってはこれ以上ない平凡な日常が、旅行者にとってはいちばんの異郷以外のなにものでもない感じを起させてくれるからです。特に天気予報はローカル色の宝庫で、聞いたことのない地域名や町名に、「旅行してるな」って感じるのです。旅行する日の朝、旅行地の天気予報を見て、予報は「晴れ」だったけど、本当に「晴れ」ているかなと道中は不安で、そして到着したら本当に「晴れ」ていたうれしい、という気持ちなのかなと思います。そして旅先で手に入れたものは全てが大切な旅の記録です。レシートだって捨てたりしません。

本名を知らぬ同士でこんなにも同じほう見てまぶしい写真(連作『ぼっち遠征』より)

今回、「文学フリーマーケット東京42」へわたしは初めて行って、そして帰りの新幹線でお迎えした本をパラパラとめくっていてこの短歌に出会いました。「これこれ」と思いました。これがわたしの今回の文字通り「ボッチ遠征」の総括的感情でした。よくぞ歌ってくださった、と感激しました。

ほそながい岬にからだを横たえて初めて眠る街のさざめき(同上)

旅先での初めての夜は寝付かれず、窓から街路が見える部屋ならばなおさら、ぼんやりと人や車の流れを見下ろしていたくなります。「ほそながい岬」は、たとえばユースホステルとかの狭い多段ベッドの比喩と読んだりもできそうですが、わたしは文字通り、そういう地形の土地なのだろうと読みました。ベッドとか部屋とかホテルとかではなく、地図で調べたその地形の場所に身を横たえていると感じるほど、知るもののない孤独な夜なのだと思いました。でもそういう街にも当然人は暮らしていて、だけどそのひとたちから自分は疎外されているんだなという淋しさを感じました。

間違っていたとは言わぬことにする養生テープの薄いきみどり(2LDK+S)

自分の間違いを言わない。養生テープでよくあるのは、簡単に剥がせると思って壁とか窓に貼りっぱなしにしていて、いざ剥がすときに薄い黄緑のテープが中途半端に剥がれないでのこってしまって困る、という状況です。本来は塗装やコーキングをするときに余分なところに塗料などが点かないようにマスキングをするために使う仮止めテープですから、マスキングする箇所を「間違」えていたけど、それは言わないでおこう、という歌かもしれません。薄い黄緑は、信号の青の色に似てるし、なんて。実際の情景はともかくとして、上の句と下の句の関連性がたしかに感じられることが不思議で、「養生テープ」のチョイスがいいんだな、と思います。

いつまでも完結しないコミックを捨てずに五度目の引っ越しをする(同上)

共感しかないです。新刊がでるたびにわたしが買っているコミックは「はじめの一歩」と「ガラスの仮面」でしたから。(「はじめの一歩」は今はもう買ってません、あきらめました)引越のとき実家から持ち出す本を厳選するのは、楽しくも苦しい作業です。それからも本は増え続けます。定期的に実家に持っていく本を厳選する作業もあります。「いつまでも完結しないコミック」は私自身の人生であるかもしれませんが、それよりも実際のコミックスだと読みたくて、この人の場合それはどのコミックだろうなと考えるのも楽しいです。

持ち帰り限定特価の椅子抱え引越し先の夜はやさしい(同上)

この瞬間の切り取りに、完全にヤラれました。「東京家具」でやりました。「引っ越し先の夜はやさしい」の「やさしい」に、わたしは作者の「やさしさ」を感じるのです。わたしはもしかしたら「きびしい」とか「さみしい」とかそっち系で読んでしまうかもしれないなと思ったから。それは、長い上り坂が、引越し先の夜に印象深いという個人的な理由のせいです。

遺言というほど強くはないけれど「シェアハウス可」と書き残してく(シェアハウス)

持ち家なのだなと、まず思いましたが、どこに「書き残して」いったのかなと考えて、「遺言というほど強くはない」というからには、自分の意思を誰かに表明する何かの文書なのだろうと推測していて、この「シェアハウス」としてまとめられた一連の短歌に戻ったときに、「実家の処分」というところに行きつきました。おばあちゃんが亡くなって、不動産屋に家の管理を任せるということがあるのかどうか分かりませんが、大家として業者の書類に「シェアハウス可」と書いた。それを「書き残し」たと表現するのは、この地(家)へ自分が戻ることはないことを示しているのでしょうか。

べたべたのレモンケーキをかじりあい外の天気を思い出せない(遠景)

「べたべたのレモンケーキ」を選んだところでもう、全ての情景が浮かんできました。とても好きです。そこに下の句「外の天気も思い出せない」です。外なんて関係ないのです。つまり、時間は無意味で、二人で一緒に「かじりあう」この瞬間の継続だけに意味がある、という「べたべた」さに溶けてしまいそうです。

思いつくだけなら罪に問われない埋め立て地にもたんぽぽが咲く(同上)

「埋立地」ではなく「埋め立て地」と平仮名で開く書き方で、短歌の中に溶け込ませているところが、好きです。もし本当に実行したらそれは「埋立地」と記述してしまう気がします。「たんぽぽ」というのがまたいいなと思います。たんぽぽの綿毛は風にのり広範囲に広がっていきます、感情のように、噂のように。夢のような綿毛が地に根付いてリアルな花を咲かせるように、「思いつ」きという種は、心の埋め立て地を覆い尽くして、いつか本当に埋めてしまった何かを養分に、隠しようのない鮮やかな黄に咲くのかもしれません。黄が注意の色なのも示唆的だな、なんて思います。

心中をしそこねたゆびを這わせてくこわいくらいに精緻な刺繍(同上)

心中というと太宰治を思い出しますが、「心中をしそこね」るというのは、二人とも死ねなかった場合と、一人だけが生き残った場合があって、この歌の「こわいくらいに精緻な刺繍」というのは、もしかしたら傍らで死んだ肉体のどこかを指しているのではないかと、にわかにゾッといたしました。先の歌の「思いつくだけ」なのがこの「心中」の可能性もありますね。あります。ありますとも。「精緻な刺繍」気になります。

平台がもうあかるくてデパ地下に今年最後の金曜の波(シティライツ)

12月25日なんですね。今年(2026年)の最後の金曜日は。去年は26日。人々はクリスマスの後で年越しの用意に奔走する平日最後の金曜日の「デパ地下」の情景と思います。「平台がもうあかるくて」の「もう」に主軸があるのかなと思います。山と積まれていた食材がはやくも売り切れてしまっているのを「あかるい」と表しているものと読んでみましたが、どうでしょうか。

ささくれを切るためだけの鋏持ち今朝もスクランブル交差点(同上)

日常なのです。「ささくれを切るためだけの鋏」はどのくらい一般的なのか分かりませんし、すくなくとも私は専用の鋏をもっていませんので、爪切りとかで切ることがありますが、それはとても痛いです。「ささくれは親不孝の印」とわたしは親に言われていました。これもどのくらい一般的なのかわからないので、この歌に「親不孝」を読み取るのはあまりも狭いかなとも思います。「スクランブル交差点」というからには大都会です。そこにはさまざな人がいて、日常的に「ささくれを切るためだけの鋏」を持ちあるくわたしもいるんだ、というそんな情景で読みました。

東京がどんなにフルーツタルトでも死に場所くらいはありますように(同上)

Xで見て、ものすごく好きな歌です。大都会はみんなにとって「フルーツタルト」みたいにあってほしいし、それを理想として人が集まってきている。だけど、そんなキラキラばかりでは息が苦しい。シティーライツは孤独な光の集積で、だけどそんな淋しさを隠して、クレイジーなパーティーみたいに暮らしていたい。「死に場所くらいはありますように」という下の句は、そんな嘘っぽいキラキラの中にあって、真実に向き合う静かな場所にこもることを許してほしい、という想いを感じます。死にたい、というのではなく、生きるための場所として。

おわりに

いつものように、好き勝手に読んでいます。どの短歌もわたしの「日常」に引き付けて読んだ時、「そういえば」と共感できるシーンが、たとえ勘違いだとしても浮かんできて、そこから忘れていたことや、考えていたことが引き出されてくるのが、とても心地よかったです。