宇祖田都子の短歌の話

森羅万象を三十一音に

見覚えは無いが確かに自分だと分かる二体の亡骸がある ―『中庭と三階』 五十首(再録)

  2020年11月25日 虹蔵不見(にじかくれてみえず)

 

  過去を拗ね未来を喪失した四月観光ビザで入った高校

 

  中庭へ身を投げ出した雪柳池に飛び散る春のスペルマ

 

  ただそこに取り残されてあるだけの一基の噴水塔の筒先

 

  陰鬱な直方体は旧校舎一週間は籠城可能

 

  錆び付いた鍵の意外な重量を苔むす一基の石碑に記す

 

  踊り場の鏡の外にある地獄鏡の中の世界は喜劇

 

  三階の非常扉をこじ開けて春の粒子に傷つけられる

 

  窓際の雨だれ映す席からは隠れてしまう避難経路図

 

  からくりが壊れた機械の作動音―がんばらなくちゃがんばらなくちゃ

 

  プリントを詰めた鞄を横抱きに教師は運送業者でもある

 

  巡回図書館司書の面影鮮明に大きく転写されてる背中

 

  自意識の中絶に苛立ちながら目玉を猫に舐められている

 

  感情はただ一晩で消え失せていびつな影が立ち塞がった

 

  話したいときに話がしたいなら身体に触れることを禁じる

 

  滝壺の金砂銀砂を巻き上げて逆さに沈む夏のタナトス

 

  寛容と侮蔑が同じものと知りあの年の夏は難産だった

 

  目の前に置かれたカップの輪郭が不穏な色を湛えて濁る

 

  暮れかけの日射しが窓を透過してただ鋭角に交わる廊下

 

  「目の前で苦しんでいる人がいる……」そう言いかけて口を噤んだ

 

  滑らかな水銀色の振動は義眼をとぷんと浮かべた涙

 

  びしょ濡れの制服脱いで見上げれば夜空に星があるはずだった

 

  「先生に送ってもらうからいいの家じゃできないこともあるしね」

 

  ぼんやりと入道雲を眺めたり悲壮な理想渦巻いてたり

 

  遠方の基地を飛び立つ戦闘機伸びきっている谺のような

 

  魂を持たぬ言葉の私生児が骸を晒す秋の底辺

 

  傾斜した光の矩形の中にいてボールが一個見つかりません

 

  目を閉じて嵐の過ぎるのを待ったこの選択という無選択

 

  日焼けした膚から悪意漲らせ最後の逃避を試みる猿

 

  相対の反語が絶対だとすれば僕は狂っているのでしょうか?

 

  骸骨にゴム貼りつけたような顔まだ手探りの意思疎通法

 

  骨ばった白い背中は逃れたい過去に未来をしばられている

 

  冬服が日差しを全て吸収し限定された時空を生きる

 

  真夜中の轍全てを切り裂いて屋上に立つ女生徒の傷

 

  屋上を飛び立っていく声のみの鳥の姿を描いたカンバス

 

  真夜中に手すりを越えた女生徒の真一文字の軌跡が残る

 

  屍を前に怯える木偶の坊 星がまったく見えない夜空

 

  見覚えは無いが確かに自分だと分かる二体の亡骸がある

 

  複雑な影を織りなす放課後の掲示板には画鋲が一つ

 

  陶酔の中に生じた嫌悪感水晶玉のように映して

 

  目の前を影が幾つも横切ってわたしはただの残像だった

 

  夜を映す池に飛沫が上がるとき私は彼を裏切っていた

 

  ババ抜きはババがなくても成立し帰るところのない人ばかり

 

  信じるか信じないかというよりも空の重みでひしゃげた校舎

 

  名を持たぬ特定不能な感情の提出期限は今日中だった

 

  何もない広い倉庫に転がされ次第に冷えてゆく猿轡

 

  先生を尊敬しますそのかわり僕を軽蔑してくれますか?

 

  砂粒が不規則に蠢いていてどうやらやっと狂い始めた

 

  温かな日差しを透過する窓の硝子はずっと冷たいままで

 

  輪郭の際立つ雲の一刷けが繰り返されるカーテンコール

 

  人々は時間の縁を過ぎてゆき見渡す限り冬は結晶

 

生きていきます。