宇祖田都子の短歌の話

森羅万象を三十一音に

短歌の身体

以下は、
2023年6月18日 KISARAGI vol.1201 に掲載した
「宇祖田都子の身辺雑記 その5 それから2023年6月18日までのわたし」の内容に、野村日魚子さんの川柳と短歌の引用を加えたものです。

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 鬱陶しいという文字だけで頭痛の去らない日々ですが、鬱陶しい気候もまたその時でなければ味わえない現象ととらえて、不調は不調として詠っていけたらいいなと思うのです。

ゆるさない絶対にゆるさないぞとびしょ濡れの犬が言いやわらかい布で拭いてやる
(野村日魚子さん『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』より

 ところでわたし、野村日魚子さんが好きで、小祝愛さん名義のものから蒐集しておりました。なんといっても定形から浮遊したリズムの心地よさ。ときに川柳として詠まれる句もまた短歌の情景に連なっていてこれは短歌だとか川柳だとか俳句だとかを越えて、大まかに詩なんだと捉えています。

尾の長い生きものばかり好きになる

白い建物はひとつもないよ、ここ

ていねいに餃子をたたんでよきつね

観光地としてのかいじゅうの死体

悪人はいなくてたくさんあるお墓

(野村日魚子さん オンライン文芸サークル六枚道場 第五回<詩・俳句>部門 グループH より)

 そうしてそれらを短歌と呼ぶことにもさほど違和は感じず、わたしの中では短歌とはやはり抒情なので、叙事に終始したい俳句との違いはわたしの中ではとりあえずある、と考えています。

傘を盗んだひとぜんいん轢かれる映画だった

海にすべての家具を捨ててあのね引越し前夜だった

(野村日魚子さん 引っ越し前夜 より)

 その意味で俳句の短歌化の流れは「詩の抒情化」に通ずるのではないかと思ったりもするのです。わたしは短歌を作るので、感情に訴えたいと思います。事物を提示して、それをあたかも景色のように鑑賞してもらうことが俳句的であるとするなら、事物に抒情を載せて提示し、共感や反感を求めるものが短歌的と、とりあえず定義するとして、俳句の読みに求められる結社性と、短歌の共感による結社性との違いというものがなんとなく考えに浮かんできたりもします。

「火星なら変な形がモテる」って笑ったきみのうさぎパンツ

るる、聞こえてる? ここをこうしてこうすると人は死ぬんだそして実際に死んだぼくだ

使い方わからないからとやるせなく笑い性器を埋めにいった暑い夏の日だった

(野村日魚子さん 野村日魚子2016 短歌はじめたばかりのころの短歌をツイートします 2022.8.2)

 

 6月12日のtwitterで、野村日魚子さんは書きました。
@GcXgtk
「なんで定型の歌を作るのが好きじゃないか考えたとき、定型というのが「その短歌をうたっている人、の存在」という身体性を自動的にその短歌に付加する特殊装置だと考えると、明らかにウソなのにわざわざ「うたっている人、の存在」を見せるのって白々しくてキモいなーみたいな気持ちがあるかもしれない」
「ウソならかっこよくウソつきたいし、たぶん、わたしは短歌の短歌らしさというのを別に「うたっている人、の存在」の身体性には見出していないんだろう」

 短歌を作りたいから、定形にまとめようとする。わたしはそれを当然のことと思っていましたし、短歌らしい短歌を作れたら短歌ができたと考えていましたが、非定形や自由律でありながら短歌と呼びたい作品が提示されたとき、当然のように短歌の形式とは単に形式であるにすぎないのだという当たり前のことに気づかされます。

分娩室に百冊もある本たちのどれ一つとして<あい>の文字なく

ドーナツあげる。頭に載せて生前をやり直しなよと天使言いけり

雪の夜。死ねば小さな丘として地図になりたい 火事を見に行く

((野村日魚子さん『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』より)

 わたしは短歌に限って「作者」「主体」「作中主体」「作者の身体性」などが、ことさらに過大視されていることにどうしても馴染めず、小説の主人公が殺人を犯したからといって、作者が殺人者でないことを「嘘だ」と指摘することはないのに、なぜ短歌だと「嘘」だと非難され、作品の評価を下げてしまうのかが、まったく理解できません。

心臓もあげます 一生をかけるようなものではないのです 夜が明けます

犯罪の多い町に生まれ犯罪
の多い町に生まれ太郎と名
付けられたことに不満はな
く 話は終わる

生活のために殺されることの多いどうぶつの話をした夜の窓の外側は火事

(前掲書)

 歌人は五・七・五・七・七の身体をしている?

 万葉の昔から相聞歌があって、おそらく短歌はその相聞歌によって生き延びたのであれば、作者が伝えたい本心を歌に託すという伝統がそれほど短歌を支えてきたというのでしょうか?

肝臓ははんぶんこにしようエチカからだくらいは軽いのがいい

しゃぼん玉なんども食べようとしてるゾンビになってもきみはきみだな

線引きができそうな雨いまおれは許さないって言われるのがすき

(前掲書)

 わたしはわたしという存在を通してわたしをわたし以外へ拡張したい、だったり離脱したい、だったりという想いで短歌を作っていて、毎年友人と開いている同人展でも「わたし」をテーマとしたことは一度もありませんでした。
 野村さんの「あきらかなウソなのに」という感覚に、わたしは全面的に賛同できますし、だから「あきらかなホントウこそが正しい」などとも思わないです。だって「あきらかなウソ」だけが「ホントウ」なのだと思うからです。わたしのしていることは、生きていることも含めて「創作」であってどうせ創作するなら「わたし」に閉じこもってなんていたくない。もちろん、感覚機器としての「わたし」の性能はもはやどうしようもないのかもしません。だけど、それを経験やインスピレーションや、「定形」などによって高めることができるならば、感覚の段階ではなくて表出の段階で、創発することができるのならば、それがわたしの表現であって、その形式が短歌なのか、俳句なのか、川柳なのか、小説なのかは、単に形式にすぎないのではないかと考えています。

また百年たてば死ぬんだおれだけが あのときこわかった 犬 なんだっけ

ていねいに朝みがく歯の永久歯の永久歯の永久さのこと考えている

たましいとか言ってんのうけるちくちくとつつかれてまわるたことたこ焼き

はずす絆創膏から人んちのシャンプーの匂い歩いて帰る

(前掲書)

 だから「表出」された作品において、「わたし」はとっくに消え去っているのでなければ駄目なんです。それは「短歌」の形式を選んだとしても同じことなんです。

友達のラインを越えて唇がムンとでてくるから応えちゃう

 鬱陶しい時期に鬱陶しいこと書いちゃいましたね。これこのままブログの方にの転載しておいて、野村さんの短歌をいくつか引用してみたりしようかな。

 ということで、引用を加えてみました。

 

追伸 2023年6月18日午後20時25分

引用二個所誤記がありましたので、訂正いたしました。たいへん申し訳ありませんでした。

誤記:「火星なら変な形がモテる」って笑ったきみのうさぎパンツ

訂正後:「火星なら変な形がモテる」って笑ったきみのうさぎパンツ

 

使い方わからないからとやるせなく笑い性器を埋めにいった遠い夏の日だった
使い方わからないからとやるせなく笑い性器を埋めにいった暑い夏の日だった

以上です