宇祖田都子の短歌の話

森羅万象を三十一音に

『うたそら 15』から引いた短歌(連作)の感想です

はじめに

『うたそら』という千原こはぎ様が定期発行なさっている短歌誌があって、わたしは創刊号から、連作八首の部へ「屋上獏部」を投稿しています。締め切りから発行までの光の速さにつねに驚かされながら、投稿作の感覚が新鮮なうちにみなさまの作品を鑑賞できることに喜びと感謝を感じながら、毎回、楽しく読んでいます。

7月の頭に第15号が発行され、わたしは好きな短歌をtwitterに、短歌のみを引きました。このブログではそれらの短歌(連作)についての感想を書きたいと思います。

kohagiuta.com

なお、今回上げたのはすべて「八首連作」のなかの短歌です。このことで、わたしはいつも、連作の一部のみを引くことが、失礼になるのではないかとの思いを持っています。連作は相互補完と相乗効果こそが特徴になると思うからです。

今回のブログでは「連作」としての魅力も、語れたらいいなと思っています。順番は『うたそら』への掲載順です。

それではまずはこちらの歌から。

本文

なんとなく水掻きのある手のひらで押した第4コースの黄色
「ラムネのなかへ」 雨虎俊寛 さん @amefurashi3107

 連作の六首目に置かれた歌。
 水泳大会決勝のスタート直前の緊迫感から、はじけるようなスタートそしてライバルを横目にペース配分しつつ、ターンの瞬間の飛沫。ゴール。激しい息遣いは別の世界のことででもあるかのように、あおむけにぽかんとプールに浮かぶ。そして八首目で、それらの情景が、君の髪から香るプールの匂いに触発された「あの頃」の思い出だったとわかります。あの頃の真剣さ、真剣だったゆえに見失ってしまっていたこと、そしてそれらを忘れてしまっていたこと。夕立のあと、濡れたアスファルトの向こうには虹が見えていたのかもしれません。
 と、これはすべてわたしの勝手な解釈で、以後、連作の解釈はすべてわたしの趣味にひきつけたものなので、あらかじめお断りしておきますね。

 好きな歌としてあげたのは、ゴールの瞬間を詠んだものです。第四コースとなると、これは優勝を争うタイムの持ち主だったのでしょう。水掻きのある手のひらはその自負でもあり、けれどもこの瞬間には確かに違和を感じている、戸惑いを感じるのです。勝つこと。そのために青春のすべてをかけてきたこと。この手につかみ取ったはずの何かが、水掻きごしのどこか不自然で間接的と感じてしまう。この大会で引退したのかもしれません。以来、そのキャリアに触れることもなく。と、そんな風に感じます。

「なんとなく水掻きのある手のひらで」が好きなポイントでした。

 

人ひとり殺めてしまう勢いでハーゲンダッツにフォークを立てる
「Foods」 新井きわ さん @kiwa0419

 こちらも六首目の歌です。
 食べること。食べられること。生きること。死ぬこと。生きるのは遺伝子を残すため? ほかならぬ自分の痕跡がネガとして残る「食」という行為。特に卵は象徴的ですが、八首目ではその卵がフリスクへと変容していきます。あたかもそれは、生きていることを実感できないままカプセルの中で生きることになかば諦め、かすかにいら立ち、何かの印を求めてしまう心情を感じます。
 ハーゲンダッツは固いので、専用のほどよく溶けるスプーンを売っていたりもする高級なアイスです。何か特別なアイスだったのではないかと想像すると、案外、このペシミズムは、ハーゲンダッツを一人、フォークで食べようとしている状況を招いてしまったことから発しているのかもしれません。ハーゲンダッツにフォークを立てる勢いで人を……

花火、夜景、星野リゾート この人は会えない夜のことばかり言う
いつのまに青がこんなに濃くなって、夏じゃんこんなの、ひどい、まぶしい
「はんとし」 井倉りつ さん @uta_litz

 三首目と八首目です。
 端的に不倫を思わせる状況。耳障りの良いできない約束めかした夢ばかりを、未来を担保に語るダメな男にめちゃくちゃにされている状況に、心が疲れ切っている。もしかしたら実現するかもしれないと望みをいだいていた夏がもうすぐそこまで来てしまった。相手はそれをかなえるつもりなんてないと、わかっているけど認めたくない。認めるくらいなら死んでしまいたい。という悲痛さを感じながら、八首目にようやく、感情をストレートに表す言葉が聞けたことが、希望であるように感じたのです。

背を伝う指が何本か分からない原野をでくのぼうがうろつく
「くたくた」池田竜男 さん @tankadragonman

 七首目です。
 勉強不足なので定かではないのですが、それぞれの歌が本歌取り的な、出典をもつような感覚があります。一首目はストレートに「山口百恵」ですし、二首目の「やさしい鮫」は村松正直さんの歌集を思い起こさせます。
 連作タイトルの『くたくた』は、八首の短歌をたしかに統べていると感じますが、それを明確に言葉に示す技量がわたしにはありません。引いた歌もそれはたしかに「くたくた」だと感じるのですが、情景にも抒情にも当てはまるし、漠然としているようで明確である、不思議な描写で、そこにとても惹かれました。

公園の丘を登れば咲いて居る泰山木の白き花かな
落雷の凄まじき時エヌエイチケー再放送のドラマ見る母
「公園と雨」 石川順一 さん @Hitler57

 二首目と四首目です。
 アララギ派写生短歌の風格を感じました。風景即情感は短歌の王道形だと思っていますが、作歌はかなり難しいと感じています。「公園と雨」八首は、その意味で勉強したい短歌です。風景は自らの感覚で取り込まれ、再構成されたモデルそのものですので、そこには必ず情感が作用しているわけで、したがって、そうした風景をそのまま短歌に移すことができれば、感情を示す抽象的な言葉など一切不要なのだと信じられる連作でした


最近の天気予報は当たるから今夜わたしも雨と降りたい
「ボニーとクライド」 泳二 さん @Ejshimada

 五首目です。
 「ボニーとクライド」の話はうろ覚えですが、改めて読み返すと七首目の歌がなぜか連作の中でキーになるという感じがしています。そして、通底するテーマとしての「雨」。読み解くという読み方は苦手なので、短歌を追っていくしかないのですが、覚悟をもった二人の旅の約束、でもそれは果たされることはなかった。というストーリーが浮かんできます。引いた歌は、100パーセントではないけれど、当たる確率が高い雨にこの身を託せば、あなたの元に降る(会える)可能性が高いのではないだろうか、という風に読みました。天気予報の確率にすがりたいほどに不確かな今。

性別もSNSじゃ曖昧で羊の肉は良く焼けている
「犬街で会う」 涸れ井戸 さん @kaionjijoe

 七首目です。
 萩原朔太郎さんの猫町を思い起こさずにいられないタイトルですが、今、知らべたところ、大阪にあるアートギャラリー+本屋さん「犬と街灯」のことなのでしょう。そこに集った折の記録が連作になっているのだなと思いました。
 短歌を引いたときは、そのお店の存在を知らなかったので、架空の街「犬街」でのスケッチとして読んでいました。すると、曖昧な性別も羊の肉も、妙に生々しい感覚で肌に染みてきたのでした。そして、いまは、実在のお店の実際の集まりが、この無国籍な感覚を醸し出せる短歌の力にあらためて感じ入っています。


あの山を越えてゆくバス捕まえて花束だけをそっと乗せたい
「紫の花の香り」 河岸景都 さん @kate_kawagishi

 七首目です。
 紫の小さな花の変容。結合と分断。湿潤と乾燥。そして喪失感。記憶とはやはり香りに似て、香りの記憶は褪せずに残る。この連作もやはり失われてしまった相手を軸に編まれたものだと感じましたが、取り戻したいとか、再会したい、という切望というより、もっとドライな「確認」という感じがしました。別れは成長の過程であり、今の自分は当時にくらべて変わってしまってはいないだろうかということを、当時をわかちあった相手に確認したいのだという感じで、だから会いたいのは当時の相手であって、今の相手ではなく、その分届かない手紙を書くように、花束だけをバスに乗せたいのだという風に読みました。返事なんていらない。むしろ返事がきたら台無しになってしまう、そんな感じ。

飲み干した水の透明さでうまれだからこそヒトは争って死ぬ
「calling」 君村類 さん @kmmr_r09

 六首目です。
 短歌って「君」や「あなた」に伝えたい伝えられない想いを記すものなのだなと改めて思います。そして、そういう短歌を詠まずにいられないときの閉塞感に息がつまる思いです。苦しさのなかでは、ほんのわずかな光やほんのかすかな風にさえ、救いを求めたくなるものです。そうして、このあまりにも心細い救いに絶望した折には、自己問答が無限に繰り返されているのです。このようなときに短歌を詠むときの客観視の是非を感じることもあるのです。苦しむ自己とそれを詠む自己との乖離は、ときとして致命的であると思われるからです。しかし、それでも歌人は詠まずにはおられないのです。苦しみから、よい短歌の手がかりを得て涎をたらしつつ言葉を探す。シオランは『一冊の本は延期された自殺である」と言いました。わたしは延期だろうが、保留だろうが、過程だろうが、死ぬまで短歌を詠みたいと思いました。


鉛筆で描く自画像の真っ黒に塗りつぶされた目にあるひかり
「勝手に食べる」 鹿ヶ谷街庵 さん @ikasamabakuchi

 二首目でした。
 連作のタイトルとして、全体のテーマの場合、表題作的な決め方、と大まかには二通りがあると思います。この「勝手に食べる」は六首目の下の句に出てくるフレーズです。連作として「食」に関連がある歌ばかりということではなかったと思います。死(別れ)を感じる連作だという印象がありました。ですがこの「死」は「青春」と分かつことのできない「死」でありつまりは「若さ」こそがテーマなのだと思います。そして「若さ」の抱える問題とはすべて「恋」にかかわる問題なのでした。勝手に食べる。それは片思いの状態を指すといえなくもないのかなとも思います。出会いと別れはそのまま生と死に直結する体験なのでした。目が死んでいる状態でもなく、ふざけたわけでもなく、鏡にうつるダメな自分の顔を見つめ続けることを強いる自画像の授業において、目がひかりを宿していること。そのひかりは好ましい輝きとしての光ではないのです。命とは、ある意味邪悪なものなのだとわたしは思っています。

人間は星の数ほどいるけれど星は灯りであまり見えない
「たいらな鬱たち」 白藤あめ さん @ametxt

 八首目です。
 たいらな鬱たち。救われないことこそが救い、という境遇はたしかにあって、救われるはずなんてないとあきらめきった状況の中、時折、そばにいてくれる人を実感できること、本当に時々、いてくれてありがとう、と、一瞬の息継ぎみたいに、それで少しだけ楽になるってことは本当にあるのです。明るすぎる町はまぶしすぎて人の姿なんてあまり見えない、けれど見える人が一人でもいれば、この歌みたいなことを言葉にしていってみたりすることもできるし、それで相手が困った顔をしてるのをみて、困らせちゃったな、迷惑だったかなって反省したりして、落ち込んで、けっきょく自分なりの方法で曲とかきいたりして過ごすのだ。寂しいとかいって困らせてごめん。でもありがとう。そんな風に伝えられたら、と思いながら。

キャンドルを吹き消しましょう このままじゃ二人の未来が見えすぎるから
「超個人的メルヘン」 たえなかすず さん @suzusuzu2009

 六首目です。六首目を選ぶことが多い気がします。
 なんだかとても幸せな連作という印象を受けました。「超個人的」ということは単に「個人的」ではなくてものすごく個人的、という意味かまたは個人的であることを超えた、という意味かを、宙ぶらりんにして楽しみました。広末さんとキャンドルの取り合わせも、あえて深入りせずにして。記念日に灯すキャンドル。それは何かの節目であったり将来を誓い合ったりするセレモニーを思わせるのですが、それを吹き消すことでつなぎたい未来がある。生活とか、世間だとか、法律だとか、そういう雑多な日常のことなんて全部些細で重要すぎて、だから醜いものは見えないようにキャンドルを二人の息吹で消して、暗黒面に落ちて生きよう。なんて、そんなふうに読んでみると、メルヘンはすべてタナトスに通ずるなんていう説に俄然近づいてくるのでした。

感情の回路が壊れているらしく今日は「はばたき」の四文字で泣く
青い花」 千原こはぎ さん @kohagi_tw

 三首目です。
 千原こはぎ様。さまざまな短歌誌の発行、本当にありがとうございます。
 さて、近しい方を亡くされた際の連作と読みました。わたしの場合は、両親の死がもたらした奇妙な時間と記憶の歪みを思いました。早朝に気分を変えたくて入ったお風呂で声をあげてただ泣いたこと。本当に必要な書類や、確認しなければならない信書とか、会社関係への連絡だとか本当に、感情を忘れてひたすら事務的な処理に奔走し続ける日々がひと段落したとき、両親と過ごしたはずの記憶の大半が、記憶から抜け落ちていることに気づきました。それでも年月は流れていき、仏間の遺影もしだいに色あせていく。両親が不在の世界線を生きている自分に、いまも少しなじめない感覚をもちながら、涙もろくなっている自分に気づく。自分のことに引き寄せて、読みました。

さっき挨拶した先生とすれ違うときの会釈のように降る雨
「日輪」 ツマモヨコ さん @moyoko_bungaku

 四首目です
 日輪。それは二首目に出てくる言葉で、しかもこの連作全体に通底するテーマでもあると思いました。指輪のようでもあり、記念日のケーキのようでもあり、机上におちる猫背の影のようでもあり、実印のようでもあります。
 まずはこの歌の比喩に惹かれました。雨をこういう感じにたとえられるなんてとても羨ましいなと感じます。けれど連作においては、さっき挨拶した先生は弁護士さんかな、なんて読みながら思って、なんとなく離婚調停を感じています。するとDVが透けてみえてきて、一首目がにわかに不穏です。連作には風鈴が出てくるのですが、なぜか寒々しく重たい空が見えます。日輪という言葉に暗さを感じさせる、とても心にのこる連作でした。

気味悪い骨が見つかる現地語で「封印」という名を持つ露頭
古代魚」 堂那灼風 さん @shakufur

 一首目です。
 いわばこの短歌の世界観を一発で示す、まさに一首目という感じの歌です。しかも現地語で「封印」というのですから、最高の不穏さです。古代魚が生きた時代と、現代とのあまりにも遠く深い隔たりを一瞬でつなげる化石。けれどそれとて、想像上のことでしかなく、失われて久しい海は、死体をうずめた土に変ってしまった。そうか、地球とは全体が土葬の墓所なのだと気づかされ、我々は死体の声を空想することしかできない。そう思うと、あらためて「封印」という名をもつのが古代魚ではなくてその古代魚の化石が埋もれていた露頭だったことが、改めて重要になります。そこは特別な地だったのです。そしてそのように特別な地として、地球があるのだとしたら。八首目は過去ではなく未来なのだとしたら。


晴天が四日続いた朝祖母は静かに龍の許へ帰りぬ
クラミツハ(五)「還る」」 ともえ夕夏 さん @croissant_hey_z

 シャーマンの祖母。クラミツハは谷川の水源を守る神だと検索したらありました。この連作では雨乞いを続けるさ中召された祖母をうたったものと読みました。二首目と六首目で繰り返される萩を届ける子供の情景が、美しくも悲しく感じられます。命を削って村のために全霊をかけることが使命であることに疑問を持たずに祈る祖母の神々しさと、痛々しさがひしひしと伝わってきます。宿命というものでしょうか。八首目。待望の雨。けれど「困ったわ」から始まることで、残されたものたちの心の中の複雑さが表現されていると感じました。隔世の村の風景が目に浮かぶ連作でした。

さあ君を連れて港へはつ夏の鎖骨は指を引っ掛けやすい
「引っ掛けやすい」 中村成志 さん @nakam8

 七首目です。
 「引っ掛けやすい」はこの歌の結句にでてくる言葉です。夏が来たという歓喜に満ちた連作と感じます。実はまだアジサイが咲くはつなつの情景なのですが、待ちきれないわたしたちは夏に体をねじこんでいきたいのです。夏の鎖骨は、キャミソールとかTシャツとかで露わになっていますから、指を引っ掛けやすいという発想が、素敵です。だけど折れやすいから気を付けて。駆け抜ける夏。立ち止まるのは夕暮れの海岸付近。そのあとはまた花火に走る。夏を謳歌したくなる連作です。


届きますように届きますように二円切手を板の間に貼る
「食パン袋」 西村曜 さん @nsmrakira

 八首目です。
 不思議な短歌です。二円切手はエゾウサギです。連作からは貧困という言葉が透けてきます。届きますように。のリフレインは切実です。しかし二円切手を貼るのは、料金不足の封書ではなく板の間です。「食パン袋」は四首目に出てきますが、それを持たないというネガティブな扱いです。パンくずを食べる鳥というイメージも浮かびますし、少額のお金が執拗に出てくるイメージもあって、幸福とはいえない情景が思い描かれます。板の間に貼る二円切手で届けたいのは、自分。家具もない板の間の部屋をレターパックに見立てて、自分をエアメールかのように遠くへ届けてほしいのだという願い。
 もしかしたら、この二円切手のみではなくて、わずかなお金を余して帰る切手をずっと貼り続けているのではないかとも思われ、それはなんと悲しい祈りであることでしょう。

答案を裏返したら先生へ読めないくらいに薄く、恋文
「蒼い」 深影コトハ さん @cotoha_mikage

 二首目です。
 「蒼い」は連作中にはなく「青」が一首目と八首目に現れて、この「青」はおそらく同じ「青」で「夢」の象徴だと読みました。青い光は夜間とか深海とかの光を思わせます。教師への恋愛感情は、星座のように繊細な輝きだったものが、育っていく幻獣となり、やがてはっきりとした肉体関係へ発展した後、自らを汚すように炭酸を飲む。「青」は余韻を持て余す「蒼」へと変わる。この連作からはそういう行為に対する罪悪感や教師に対する断罪などは一切なく、「幻滅」=「蒼」という位置づけなのかなという感じがしました。


(八首全部好きです)
「遺言」 深山睦美 さん @57577_77575

 全部を写すわけにはいかないと思うので、二首目を引きます。

夢色のでっかい馬糞撒き散らし竹下通りを往くユニコーン

 テイストはこういう雰囲気の八首です。短歌的飛躍にあふれ、現実世界をメルヘン側に拡張する連作で、その温度感がとても好きです。
 「遺言」は一首目に出てきます。そしてそれぞれの歌にも「遺言」は影を落としています。それは馬糞を撒き散らして歩くユニコーンや、蟹や、塹壕の中や、小田急線とくちづけを交わす人や、地縛霊や、ホコ天にいる人々や、空き巣で、死が予感されなくもない状況を示唆する歌が続いているところです。死の刹那に見えるという走馬灯の間、時間が止まっているかのようにゆっくりになる感覚が、これらの歌から感じます。

 

だれひとりかなしいひとをのせないでハッピーエンドの終電はしる
「アイドルとサイレン」 虫追篤 さん @musouatsushi

 八首目です。
 アイドル。偶像。崇拝の対象。そんななかで手品師はどのような役割を果たしていたのか。神は実は無力で、ただ人々に希望と連帯を与えるシンボルなのだと思いました。「だれひとりかなしいひとをのせないで」という言葉には、厳しい選別の感覚があります。そしてサイレンが次々と鳴りやむ世界には終末の予感を彷彿します。

悲しみ 悲しみ 悲しみのカケラ
持ち帰ってください
あなたの事情は関係ないから
持ち込まないでください
モーニング娘。’19 「愛されたい」より)

 しかもそれは終電です。手品師は無事この電車に乗れたでしょうか。

 

風に舞ふレジ袋たちあれはきつとレジ袋の国へ向かつてる
「寂しい遊園地」 村田一広 さん @mucci2022

 六首目です。
 風に舞うレジ袋。吹き溜まりへ向かう途中のレジ袋はみんな同じ方向へ向かっていくようにたしかに見えます。そこをレジ袋の国とよび、そのように呼ばれるとき、その国はなんだか黄泉の国を思わせるのです。
 遊園地のアトラクションには、さまざまな部族の成人通過儀礼を思わせるものも多く、仮死体験よる再生の喜びを感ずる構造として読み解く研究者もいたと記憶しています。しかし、この連作の「寂しい遊園地」は遊園地ではないようです。それは悪夢というにはとりとめのない、救いというにはあまりに薄すぎる、覚めるまえの覚めることのない夢なのかもしれません。目覚めたとしても余韻として残り続ける寂しい夢。それでもなぜか懐かしくかんじてしまう。不思議な感覚です。

血を抜いてゐると言はれたカラオケのとなりの部屋の音が明るい
「刻」 朧 さん @rou_tanka

 五首目です。
 抗いようのない運命を感じる連作でした。親と子の関係性なのかもしれません。最後まで修復することはできなかったけれど、抗いようのない血。認めてもらえなかった仕事。「刻」というタイトルは、「時間」「刻まれる身体」「刻印」など、幾重もの意味をもって連作のアンカーとなっていると感じます。当初、この歌を引いたときは単純に、カラオケボックス献血コーナーがあって、血を抜いている部屋の隣で歌ってる情景と呼んでいて、そのような状況にひかれたのでした。だけど改めて連作として読み進めたとき、以上のような感想をもちました。さらに深く読める連作だと思います。

おわりに

以上です。

いつもながら的外れな解釈の羅列となっていることと思いますけれど、わたしにとって心にのこる短歌であることだけでも伝わればうれしいです。そして、素敵な短歌をもたらしてくださったみなさま、本当にありがとうございました。