宇祖田都子の短歌の話

森羅万象を三十一音に

CD短歌夏フェス2023 ―sideA 好きな短歌レビュー

今年も暑かった、CD短歌夏フェス2023。

cdtanka.wixsite.com

 8月26日(土)20時~24時 総勢48名のパフォーマンスがXのTLを席巻しました。わたしは20時20分から4分間の出番をいただいて、8首10ポストのセットリストをお届けいたしました。

 主宰の泳二様により、以下にまとめられています。ライブ感覚で楽しめるので、ぜひフェスを追いかけてください。

togetter.com

 さて、このsideAでは、わたしが好きな短歌を再掲し、そのレビューをまとめます。

 なお、フェスでは画像や動画で紹介されたものや、連作形式、複数人での合作形式などさまざまなバリエーションがありましたが、このブログではそれらを十分にご紹介することができず申し訳ありません。基本的には短歌の感想となりますことをあらかじめお断りいたします。それでは、どうぞ。

レビュー

御糸さち @MEATsachi 様
シロイルカきゅわっと鳴いて今は夜 誰かが眠り誰かが消える

 結句「誰かが消える」が不穏です。満天の星空の穏やかな波のまにまに白イルカがゆったりと泳いでいく場面に『海のトリトン』というアニメを思い出します。白イルカの「きゅわっ」は寝言のようにも思われ、白イルカの夢がこの世界なのではなかったかというファンタジーを感じました。また、『集まれ動物の森』のような世界において、寝落ちすることはアバターの一時消滅を意味する、ということも感じられます。眠ることと死ぬことと消えることとの近さ。わたしにとってファンタジーとは死を描くものです。

紺野ちあき @ChiakiTanka 様
たっぷりと西瓜は熟れてこの赤はクレヨンでこそ描かれるべし

 ガラスペンに光碧色のインクで原稿用紙罫に書かれた画像が美しいパフォーマンスでした。やはり西瓜は、写真や水彩画などではなく、クレヨンでゴシゴシと描く絵日記が似合うと感じました。「たっぷりと西瓜は熟れて」だけでもう、だれもが「夏」を思い描くことができる。できると信じること。この国はこういう「信頼」によってつながっているのではないかと思います。昭和、平成、令和へと変わっていく時代のなか、「西瓜」というアイコンはこの先どこまで通用するだろうか、などと考えると少し寂しい気もしますが、少なくともわたしたちはその生き証人であることの幸せを噛みしめました。

雀來豆 @jacksbeans2 様
食卓のラジオの傍にひとつだけ西瓜の種が発芽している/ヨシダジャック『DOT』

 ルフィーノ・タマヨの『SANDIA』という不思議な画像と共に発表された短歌です。この短歌に記された情景がたまらなく好きです。狭いアパートの一室。玄関のすぐ横に流し台があり、簡素なテーブルが壁にぴったりとついて置かれている。熱い部屋です。そこで種を飛ばしながら西瓜を食べたのでしょう。そのとき取り残した西瓜の種が一つ発芽している。この発芽した西瓜のある部屋には人の気配がありません。「発芽している」は主体視線の気づきではなく、小説的三人称叙述の「している」なのではないかと感じます。西瓜を食べた後、住人に何かがあったのではないか。発芽という現象には未来があるはずなのですが、それよりも発芽にいたるまで放置された時間が重くのしかかる気がしました。

中村成志 @nakam8 様
磯蟹を数多踏み殺さなければ岸へと着けず月の明け方

 月明りをバックに浜辺を無数の蟹が這う情景はなぜか記憶にあり、はじめは砂浜を歩いて海から帰るところ、と思っていたのですが、「岸へと着けず」であることに着目して、途端に「死にきれなかった人」という景が立ち現れてきました。もちろん、シュノーケリングから戻るというのが通常だと思うのですが「踏み殺す」に引っ張られたのでしょうか。まるで、生還を許さないかのように浅瀬にびっしりと蟹がいる。蟹を踏み殺さなければ生きることができない。深夜、入水した人が溺れかけ、へとへとになって足が立つところまで戻ってきた場面。だけどまだ生還したとは書かれていません。他の命を奪ってまで生きながらえる価値が自分にあるのだろうか。そんな自問自答。夜明けが背中を押してくれるのではないかということだけが、希望です。

福山桃歌(ふくやまももか) @momoka_fukuyama 様
世界、まだ敵にならないで 目覚めたら忘れるような淡い朝焼け

 読点と一字開けの意図を汲まなければ、と思うのですがそれができるかどうかわかりません。「世界まだ敵にならないで」と「世界、まだ敵にならないで」との差は、世界に対する「祈り」の遠さかなと感じました。「世界まだ敵にならないで」は、「世界まだ、敵にならないで」と読まれがちなのをあえて「世界、」を独立させる意味は、抗いようのない運命としての「世界」に対する、絶望的な祈り、だと感じます。このままでは「敵」に回ってしまう「世界」に対して、ほとんど無力な祈り。それが叶う可能性は、「目覚めたら忘れるような淡い朝焼け」ほどしかない。一文字開けの後半はその希望なのだと思います。翌日のデイタイムになったら一斉に炎上してしまうような何かがあった。それを回避する方法は皆無で、ただ祈って眠るしかない。淡い朝焼けを希望に、運を天に任せて。

ニキタ・フユ(水没) @tk_koushima 様
剛速球な言葉を頭に打ち込んでやるから首を洗って待ってろ

 クリープハイプの「しょうもな」のMVと共に発表された短歌ですが、MVを未見のままで感想を書いています。気概を感じる強い短歌で、一読で好きでした。他人に言葉を届ける表現をしている以上、こういう感じはわたしにもあるなと改めて感じたのです。誰も聞いたことのない短歌。それが短歌だと気づかれないくらい斬新で、しかも本質的な短歌。「剛速球な言葉」へのあこがれがふつふつと湧いてきます。SNSのおかげで、「頭に打ち込む」仕組みはみんなが手にしているのですから、あとは「剛速球」です。頑張ります。

宮木水葉 @miyagi_mizuha 様
この世では無いかのように撫でている封筒にある遠野の二文字

 この封筒は、送るのかそれとも受け取ったのか。「封筒にある」という書き方は、「遠野」に住んでいる人が受け取ったのだととれます。でも、自分が住んでいる住所に対して「この世では無いかのように」と感じることがあるでしょうか。と書いていて、「遠野」であれば、そんな感じになるのではないかと思われてくるのです。「遠野物語」にはこの地の「彼岸と此岸」の曖昧さが記されています。たとえば「引っ越しました」のハガキに印刷した新しい自分の住所の「遠野」の二文字は、なんとなく住所から浮遊した異郷のように写らないでしょうか。自分が住んでいるのが「この世では無いかのよう」な感覚に、つい「遠野」の二文字を確かめたくなる。それは、突然に遠距離になってしまった相手からの手紙だったのかもしれまないと、唐突に感じました。表には慣れ親しんだ自分の住所が書かれているが、その裏面には「遠野」という知らない土地が記されている。もう会えないのではないか、という不安がその「遠野」という地名と相まって、不安が募るのです。その地名を撫でる行為は、おまじない、のような気もしてきます。

河岸景都 @kate_kawagishi 様
名前だけ残せることを夢想する奇跡としての化石になって

 迫力ある化石の写真ともに発表されていた短歌でした。「奇跡としての化石」とはどんな化石だろうと考えました。「名を残す」とは通常、「業績を残す」ということで、何かを成しえた事とセットで名前が残るのです。ですが、この短歌ではこの通常の「名前を残す」ととりたくないと感じました。「名前だけ残せることを夢想する」のですから、たとえば、モノリス的なものに名前だけが刻まれているのです。名前だけは分かるがあとは一切不明。そんな遺物を「奇跡としての化石」と称している。おそらくこの歌にはいろいろな仕掛けがあって、「名前を」ではなく「名前だけ」、「残す」ではなくて「残せる」、「奇跡の」ではなく「奇跡としての」という書き方を丁寧に読み解いていくことが重要なのかなと感じました。通常の意味合いを少しずつズラしていく語法は、あたかも内容そのものではなく表面に記されたものだけが意味を持つのだというようにも思われました。

モノクロームバタフライ @cotoha_mikage 様
光虫  海星  細い手が触れた魚の部分が火傷してゆく(秋山生糸様)
恋をして醜く染まる肌を見て 想像上の生き物ですか (秋山生糸様)
思い出す 少女が愛を得るために脚を切り取る童話のことを(深影コトハ様)

 秋山生糸様と深影コトハ様のユニット、モノクロームバタフライ様の百合相聞短歌を、 朗読付き動画で表現なさっていました。相聞ということで、互いに一首ずつ計二首で一組なのですが、このように一首一首を分けてしまって申し訳ないです。このレビューでは、何卒ご容赦いただければと思います。モチーフは人魚姫。変わらなければならないのは女性で、そのために多大なる犠牲を払うのも女性。その犠牲によって自立できなくなってしまうのもまた女性。相手に見初めてもらうため欠点と考える部分を矯正しなければならないと焦る。実は恋なんをしなければ、それは切実な欠点ではなかったのに、相手が理想とする姿を想定して、その姿に変容していった自分はまるで、想像上の生き物のように非現実的で。自ら脚を切り取ったあの悲劇の童話の主人公のようではないか。そんな無理しても続かない。ありのままの自分を受け入れてくれる人と。そんな正論は不要な今を悲劇にむかって進んでいく姿は、すがすがしくすらありました。

犬派宣言! @inuhasengen 様
容疑者の歩幅で抜けるあぜ道の躊躇するほどなだらかなこと クリームソーダ日和/白妙テリア 様

 犬派宣言! 様は、草枕コーギー様 八雲ビーグル様 白妙テリア様3人にょる短歌アイドルグループです。「容疑者の歩幅」といわれるとあまり大股ではないと思います。「あぜ道」というのは道こそは細くて限られていますが、視界は開けていて容疑者としては避けたいのではないでしょうか。月明りのあぜ道をおそるおそる歩かねばならない理由があるのです。それは事前ではなく事後のことで、してしまったことに対する自責と動揺に比べると、足元はあまりにもなだらかで逆に何かの罠なのではと勘ぐってしまいたくなるくらい疑心暗鬼になっている。でもそれは、夜、好きな彼女を家まで送った玄関口で話し込んで別れ際にファーストキスをしてきた、というようなことだったのかもしれないし、その相手が本当は好きになってはいけない相手だったということなのかもしれない、などと読むのは身勝手すぎるでしょうか。(あ、でも私はいつだって身勝手にしか読んでないのでした)

紅志野パワーみのり @MinoriBenishino 様
昼よりも夜の散歩が好きなのは月なら許してくれそうだから

 本当に月の明かりは優しくて。光と影をはっきりさせる昼間より闇は闇のままにしておいてくれる月に親しみを感じる気持ちはとてもよくわかりました。だけど許されるなんてこと、本当はないのです。ただ直視したくない気持ちを分かって欲しい。そうやって黙って輪郭を曖昧なままにしておいてくれたら少し息がつけるから。すれ違う人もまばらな月の道を影を踏みつつ何も捨てないで歩き続けるという癒しを感じました。

ソウシ @sixia0uT8BMBIgp 様
サンダルで会いたさだけをぶら下げて夏の旅って身軽でいいね
海がもう近いとわかるコンビニがこれ見よがしに掲げる浮き輪
今日のこと誰かに話すこの土地の名前のついたお菓子とともに

 リプで「熱海」と教えていただきました。わたしは熱海駅からほど近い「ジョナサン」が日本一好きなファミレスです。海の近くにファミレスがある土地に旅行したいと常々思っています。それはさておき、The 夏 がつまった短歌だと思いました。会いたいと思えばそのまま出かけられる夏の気軽さ。コンビニに浮き輪。もうその景色だけで「特別」な感じがします。しかもこのコンビニはまだ「海」が見えていないのですから、俄然、気分が盛り上がります。海からどれくらい離れたところにあるコンビニまで、浮き輪を目立つところに置いているものか調べたくなってきます。そして旅のことを話す。ここでは特定の相手はいないけれど、たとえば職場でお菓子を配った時や、近所へおすそわけしたときなどにきっと話題に上がるでしょう。でも「会いたい」から始まった海行きであったとしたら、職場にお土産なんかもっていかないかもしれませんね。家に置いといて、遊びに来てくれた誰かに出してその折に「あの人とどうなの?」なんて話になるのかもしれません。とても気持ちのよい短歌だなと思いました。

クジラと蛇口 @kujira_jaguchi 様 
人間の付けた名前でいいですか海では何て呼ばれていたの/藤田美香様

 藤田美香様と蛇口ひろこ様のユニットで、藤田美香様撮影の写真とともに発表されていた短歌です。生き物の名前って、みんな勝手に人間がつけたものですものね。国の名前も自国と外国とで違っていたりするのも不思議ですが、それはまた別の話。たとえば、わたしは未見なのですが、ジブリ映画にこんなシチュエーションがあったかな(ポニョ)などと思ったり。問いかける謙虚さと、問いかけが通ずる不思議さとが同居したなんとも味わい深い短歌だと感じました。転入生に「前の学校ではなんて呼ばれてたの?」と尋ねるような感じもあって、多様性には謙虚さが不可欠なんだ、なんてあまり関係のないことまで考えてしまうくらい、いろいろ引き寄せられる短歌でした。

石村まい @mai_tanka 様 
シャンプーもシュークリームも八月も質より量で楽しむタイプ
一時停止がむずかしい乗り物をつかっていたら夏が終わった
失くしたら摘んでやるから喉仏 花の匂いを手放しなさい
なまなまと啄まれたる野兎のはりがねの国を照らしてはだめ

 「夏の終わりの短歌たち」と題された短歌。「質より量」は若さの特権だなって、わたしは最近つくづく思うのです。そして夏はたしかに「質より量」で楽しむべきものだって感じるのです。シャンプーは盛大に泡立てるし、シュークリームはほとんど空気だからいくつも食べたいし。八月には詰め込めるだけ詰め込むのが絶対正解だと思います。「一時停止がむずかしい乗り物」について、考えました。思いつくのは「船」「飛行機」「ロケット」とか。だけどここは「身体」とか「若さ」なんかも考えてみたいなと思いました。なんだか「若さ」にこだわってるみたいですが、夏ってそういうところないです? 止まってる場合じゃないのです。夏なら失敗しても許されるって、許してあげるって思います。そして、「仕掛け付き」と書かれた二首。折句になっています。そして折句にするためのワードの斡旋によって、通常の言葉の配置でなくなって「詩」が忍び入る余地が生じているのだと思います。わたしはこういう短歌がとても好きで、ただ読んで響きと曖昧なイメージを楽しみたいと思っています。なので意味の特定はしません。さまざまな意味や情景や時間が交錯する多層性に遊びたいと思うのです。

泳二 @Ejshimada 様 夏の贅沢
台風に洗われた昼を見下ろしてベランダで飲みほす缶ビール

 主宰のターンです。毎回とても素敵な風を吹かせてくださり感謝しています。今年もとても興奮しました。この短歌の好きなところは、さらりと読める単純な情景描写でありながら詩を感じるところです。情景は過不足なく自然に立ち現れます。視界に入っているものも、ベランダの様子も服装もなんとなくわかるし、青空にちぎれた積乱雲が飛んでいる感じも、時間経過も感じられます。このような情報を読み手から引き出せるのは、簡素にみえるこの短歌が超絶的な配慮によってつくられているからだと思います。「台風に洗われた昼」「を見ろして」「ベランダで」「飲み干す缶ビール」細かく見ていくと、けっして散文の並びではなく「短歌」としての語順であることがわかります。その具体的な効果を分析できる能力がわたしにはないのですが、本当に好きな短歌です。

星川郁乃 ikuno💙💛@ikecyan 様
ソプラノにつられぬアルトを歌いたい 風は微かに水面を揺らす
われも回路のひとつとなしてあの夏と呼ぶべき夜の青い放電

 動画にて表現された短歌でした。「ソプラノにつられぬアルトを歌いたい」ソプラノは主旋律でアルトはコーラス的要素が強いとするなら、この上句では主体の決意が書かれているのだと思います。それはアルトという役割を受け入れ、まっとうしたいという思いです。ですがその分「ハーモニー」という意識が弱いのかもしれません。一文字開けの下句「風は微かに水面を揺らす」この景は、上句との取り合わせとしてどのような意味をもつでしょうか。風と水面とは別のものですが、互いに影響しあっています。主体の決意にはまだ迷いや不安があってそれが水面の揺れと重なっているのかなと思いました。次の短歌はとにかくカッコいいです。「夜の青い放電」を稲妻ととらえることもできますが、オーラとかそんな超常的な光を想定してもいいのでは、というくらいの射程をもった歌だと感じました。夏という回路に組み込まれた我々の生命力がスパークする。「あの夏と呼ぶべき」の「あの」は具体的にいついつの夏、をさす「あの」ではなく定冠詞的「あの」だと読みました。まさに「夏と呼ぶべき」なのです。生命力が放電しまくる特殊な磁場をもったこの季節は。

吉岡繁樹 @no_shigeki 様
アングラの昏き愉悦に倦み果ててただ死ぬために蝉は羽化する/吉岡繁樹

 夏樹様とのコラボによる発表に、AIによる短歌評付動画がとても興味深い発表でした。ブログでもAI短歌評を継続的になさっていて、AIってすごいな、と思いました。この短歌、スタイリッシュですね。塚本邦雄さんみたい、って思います。成長とは死へ至る過程であり、しかも蝉は地中では長らく生きていたのですから、そのまま地中にとどまれえばもっと長生きするのではないか。だが、そのような安寧な土中に飽き、蝉は空に死すことを求める。素敵です。そして蝉の雄は命の限り歓喜の声を張り上げて昇天する。夏の終わりにふさわしい短歌だなと思いました。

おわりに

 以上です。手前勝手な妄想読みですが、好きな短歌が増えていくことはなんて豊かなことだろうと感謝することしきりです。次回もとても楽しみです。

さて、ブログのsideBでは、自作とボランティア参加したことについてまとめたいと思います。それではまた。