宇祖田都子の短歌の話

森羅万象を三十一音に

CD短歌夏フェス2023 ―sideA 好きな短歌レビュー

今年も暑かった、CD短歌夏フェス2023。

cdtanka.wixsite.com

 8月26日(土)20時~24時 総勢48名のパフォーマンスがXのTLを席巻しました。わたしは20時20分から4分間の出番をいただいて、8首10ポストのセットリストをお届けいたしました。

 主宰の泳二様により、以下にまとめられています。ライブ感覚で楽しめるので、ぜひフェスを追いかけてください。

togetter.com

 さて、このsideAでは、わたしが好きな短歌を再掲し、そのレビューをまとめます。

 なお、フェスでは画像や動画で紹介されたものや、連作形式、複数人での合作形式などさまざまなバリエーションがありましたが、このブログではそれらを十分にご紹介することができず申し訳ありません。基本的には短歌の感想となりますことをあらかじめお断りいたします。それでは、どうぞ。

レビュー

御糸さち @MEATsachi 様
シロイルカきゅわっと鳴いて今は夜 誰かが眠り誰かが消える

 結句「誰かが消える」が不穏です。満天の星空の穏やかな波のまにまに白イルカがゆったりと泳いでいく場面に『海のトリトン』というアニメを思い出します。白イルカの「きゅわっ」は寝言のようにも思われ、白イルカの夢がこの世界なのではなかったかというファンタジーを感じました。また、『集まれ動物の森』のような世界において、寝落ちすることはアバターの一時消滅を意味する、ということも感じられます。眠ることと死ぬことと消えることとの近さ。わたしにとってファンタジーとは死を描くものです。

紺野ちあき @ChiakiTanka 様
たっぷりと西瓜は熟れてこの赤はクレヨンでこそ描かれるべし

 ガラスペンに光碧色のインクで原稿用紙罫に書かれた画像が美しいパフォーマンスでした。やはり西瓜は、写真や水彩画などではなく、クレヨンでゴシゴシと描く絵日記が似合うと感じました。「たっぷりと西瓜は熟れて」だけでもう、だれもが「夏」を思い描くことができる。できると信じること。この国はこういう「信頼」によってつながっているのではないかと思います。昭和、平成、令和へと変わっていく時代のなか、「西瓜」というアイコンはこの先どこまで通用するだろうか、などと考えると少し寂しい気もしますが、少なくともわたしたちはその生き証人であることの幸せを噛みしめました。

雀來豆 @jacksbeans2 様
食卓のラジオの傍にひとつだけ西瓜の種が発芽している/ヨシダジャック『DOT』

 ルフィーノ・タマヨの『SANDIA』という不思議な画像と共に発表された短歌です。この短歌に記された情景がたまらなく好きです。狭いアパートの一室。玄関のすぐ横に流し台があり、簡素なテーブルが壁にぴったりとついて置かれている。熱い部屋です。そこで種を飛ばしながら西瓜を食べたのでしょう。そのとき取り残した西瓜の種が一つ発芽している。この発芽した西瓜のある部屋には人の気配がありません。「発芽している」は主体視線の気づきではなく、小説的三人称叙述の「している」なのではないかと感じます。西瓜を食べた後、住人に何かがあったのではないか。発芽という現象には未来があるはずなのですが、それよりも発芽にいたるまで放置された時間が重くのしかかる気がしました。

中村成志 @nakam8 様
磯蟹を数多踏み殺さなければ岸へと着けず月の明け方

 月明りをバックに浜辺を無数の蟹が這う情景はなぜか記憶にあり、はじめは砂浜を歩いて海から帰るところ、と思っていたのですが、「岸へと着けず」であることに着目して、途端に「死にきれなかった人」という景が立ち現れてきました。もちろん、シュノーケリングから戻るというのが通常だと思うのですが「踏み殺す」に引っ張られたのでしょうか。まるで、生還を許さないかのように浅瀬にびっしりと蟹がいる。蟹を踏み殺さなければ生きることができない。深夜、入水した人が溺れかけ、へとへとになって足が立つところまで戻ってきた場面。だけどまだ生還したとは書かれていません。他の命を奪ってまで生きながらえる価値が自分にあるのだろうか。そんな自問自答。夜明けが背中を押してくれるのではないかということだけが、希望です。

福山桃歌(ふくやまももか) @momoka_fukuyama 様
世界、まだ敵にならないで 目覚めたら忘れるような淡い朝焼け

 読点と一字開けの意図を汲まなければ、と思うのですがそれができるかどうかわかりません。「世界まだ敵にならないで」と「世界、まだ敵にならないで」との差は、世界に対する「祈り」の遠さかなと感じました。「世界まだ敵にならないで」は、「世界まだ、敵にならないで」と読まれがちなのをあえて「世界、」を独立させる意味は、抗いようのない運命としての「世界」に対する、絶望的な祈り、だと感じます。このままでは「敵」に回ってしまう「世界」に対して、ほとんど無力な祈り。それが叶う可能性は、「目覚めたら忘れるような淡い朝焼け」ほどしかない。一文字開けの後半はその希望なのだと思います。翌日のデイタイムになったら一斉に炎上してしまうような何かがあった。それを回避する方法は皆無で、ただ祈って眠るしかない。淡い朝焼けを希望に、運を天に任せて。

ニキタ・フユ(水没) @tk_koushima 様
剛速球な言葉を頭に打ち込んでやるから首を洗って待ってろ

 クリープハイプの「しょうもな」のMVと共に発表された短歌ですが、MVを未見のままで感想を書いています。気概を感じる強い短歌で、一読で好きでした。他人に言葉を届ける表現をしている以上、こういう感じはわたしにもあるなと改めて感じたのです。誰も聞いたことのない短歌。それが短歌だと気づかれないくらい斬新で、しかも本質的な短歌。「剛速球な言葉」へのあこがれがふつふつと湧いてきます。SNSのおかげで、「頭に打ち込む」仕組みはみんなが手にしているのですから、あとは「剛速球」です。頑張ります。

宮木水葉 @miyagi_mizuha 様
この世では無いかのように撫でている封筒にある遠野の二文字

 この封筒は、送るのかそれとも受け取ったのか。「封筒にある」という書き方は、「遠野」に住んでいる人が受け取ったのだととれます。でも、自分が住んでいる住所に対して「この世では無いかのように」と感じることがあるでしょうか。と書いていて、「遠野」であれば、そんな感じになるのではないかと思われてくるのです。「遠野物語」にはこの地の「彼岸と此岸」の曖昧さが記されています。たとえば「引っ越しました」のハガキに印刷した新しい自分の住所の「遠野」の二文字は、なんとなく住所から浮遊した異郷のように写らないでしょうか。自分が住んでいるのが「この世では無いかのよう」な感覚に、つい「遠野」の二文字を確かめたくなる。それは、突然に遠距離になってしまった相手からの手紙だったのかもしれまないと、唐突に感じました。表には慣れ親しんだ自分の住所が書かれているが、その裏面には「遠野」という知らない土地が記されている。もう会えないのではないか、という不安がその「遠野」という地名と相まって、不安が募るのです。その地名を撫でる行為は、おまじない、のような気もしてきます。

河岸景都 @kate_kawagishi 様
名前だけ残せることを夢想する奇跡としての化石になって

 迫力ある化石の写真ともに発表されていた短歌でした。「奇跡としての化石」とはどんな化石だろうと考えました。「名を残す」とは通常、「業績を残す」ということで、何かを成しえた事とセットで名前が残るのです。ですが、この短歌ではこの通常の「名前を残す」ととりたくないと感じました。「名前だけ残せることを夢想する」のですから、たとえば、モノリス的なものに名前だけが刻まれているのです。名前だけは分かるがあとは一切不明。そんな遺物を「奇跡としての化石」と称している。おそらくこの歌にはいろいろな仕掛けがあって、「名前を」ではなく「名前だけ」、「残す」ではなくて「残せる」、「奇跡の」ではなく「奇跡としての」という書き方を丁寧に読み解いていくことが重要なのかなと感じました。通常の意味合いを少しずつズラしていく語法は、あたかも内容そのものではなく表面に記されたものだけが意味を持つのだというようにも思われました。

モノクロームバタフライ @cotoha_mikage 様
光虫  海星  細い手が触れた魚の部分が火傷してゆく(秋山生糸様)
恋をして醜く染まる肌を見て 想像上の生き物ですか (秋山生糸様)
思い出す 少女が愛を得るために脚を切り取る童話のことを(深影コトハ様)

 秋山生糸様と深影コトハ様のユニット、モノクロームバタフライ様の百合相聞短歌を、 朗読付き動画で表現なさっていました。相聞ということで、互いに一首ずつ計二首で一組なのですが、このように一首一首を分けてしまって申し訳ないです。このレビューでは、何卒ご容赦いただければと思います。モチーフは人魚姫。変わらなければならないのは女性で、そのために多大なる犠牲を払うのも女性。その犠牲によって自立できなくなってしまうのもまた女性。相手に見初めてもらうため欠点と考える部分を矯正しなければならないと焦る。実は恋なんをしなければ、それは切実な欠点ではなかったのに、相手が理想とする姿を想定して、その姿に変容していった自分はまるで、想像上の生き物のように非現実的で。自ら脚を切り取ったあの悲劇の童話の主人公のようではないか。そんな無理しても続かない。ありのままの自分を受け入れてくれる人と。そんな正論は不要な今を悲劇にむかって進んでいく姿は、すがすがしくすらありました。

犬派宣言! @inuhasengen 様
容疑者の歩幅で抜けるあぜ道の躊躇するほどなだらかなこと クリームソーダ日和/白妙テリア 様

 犬派宣言! 様は、草枕コーギー様 八雲ビーグル様 白妙テリア様3人にょる短歌アイドルグループです。「容疑者の歩幅」といわれるとあまり大股ではないと思います。「あぜ道」というのは道こそは細くて限られていますが、視界は開けていて容疑者としては避けたいのではないでしょうか。月明りのあぜ道をおそるおそる歩かねばならない理由があるのです。それは事前ではなく事後のことで、してしまったことに対する自責と動揺に比べると、足元はあまりにもなだらかで逆に何かの罠なのではと勘ぐってしまいたくなるくらい疑心暗鬼になっている。でもそれは、夜、好きな彼女を家まで送った玄関口で話し込んで別れ際にファーストキスをしてきた、というようなことだったのかもしれないし、その相手が本当は好きになってはいけない相手だったということなのかもしれない、などと読むのは身勝手すぎるでしょうか。(あ、でも私はいつだって身勝手にしか読んでないのでした)

紅志野パワーみのり @MinoriBenishino 様
昼よりも夜の散歩が好きなのは月なら許してくれそうだから

 本当に月の明かりは優しくて。光と影をはっきりさせる昼間より闇は闇のままにしておいてくれる月に親しみを感じる気持ちはとてもよくわかりました。だけど許されるなんてこと、本当はないのです。ただ直視したくない気持ちを分かって欲しい。そうやって黙って輪郭を曖昧なままにしておいてくれたら少し息がつけるから。すれ違う人もまばらな月の道を影を踏みつつ何も捨てないで歩き続けるという癒しを感じました。

ソウシ @sixia0uT8BMBIgp 様
サンダルで会いたさだけをぶら下げて夏の旅って身軽でいいね
海がもう近いとわかるコンビニがこれ見よがしに掲げる浮き輪
今日のこと誰かに話すこの土地の名前のついたお菓子とともに

 リプで「熱海」と教えていただきました。わたしは熱海駅からほど近い「ジョナサン」が日本一好きなファミレスです。海の近くにファミレスがある土地に旅行したいと常々思っています。それはさておき、The 夏 がつまった短歌だと思いました。会いたいと思えばそのまま出かけられる夏の気軽さ。コンビニに浮き輪。もうその景色だけで「特別」な感じがします。しかもこのコンビニはまだ「海」が見えていないのですから、俄然、気分が盛り上がります。海からどれくらい離れたところにあるコンビニまで、浮き輪を目立つところに置いているものか調べたくなってきます。そして旅のことを話す。ここでは特定の相手はいないけれど、たとえば職場でお菓子を配った時や、近所へおすそわけしたときなどにきっと話題に上がるでしょう。でも「会いたい」から始まった海行きであったとしたら、職場にお土産なんかもっていかないかもしれませんね。家に置いといて、遊びに来てくれた誰かに出してその折に「あの人とどうなの?」なんて話になるのかもしれません。とても気持ちのよい短歌だなと思いました。

クジラと蛇口 @kujira_jaguchi 様 
人間の付けた名前でいいですか海では何て呼ばれていたの/藤田美香様

 藤田美香様と蛇口ひろこ様のユニットで、藤田美香様撮影の写真とともに発表されていた短歌です。生き物の名前って、みんな勝手に人間がつけたものですものね。国の名前も自国と外国とで違っていたりするのも不思議ですが、それはまた別の話。たとえば、わたしは未見なのですが、ジブリ映画にこんなシチュエーションがあったかな(ポニョ)などと思ったり。問いかける謙虚さと、問いかけが通ずる不思議さとが同居したなんとも味わい深い短歌だと感じました。転入生に「前の学校ではなんて呼ばれてたの?」と尋ねるような感じもあって、多様性には謙虚さが不可欠なんだ、なんてあまり関係のないことまで考えてしまうくらい、いろいろ引き寄せられる短歌でした。

石村まい @mai_tanka 様 
シャンプーもシュークリームも八月も質より量で楽しむタイプ
一時停止がむずかしい乗り物をつかっていたら夏が終わった
失くしたら摘んでやるから喉仏 花の匂いを手放しなさい
なまなまと啄まれたる野兎のはりがねの国を照らしてはだめ

 「夏の終わりの短歌たち」と題された短歌。「質より量」は若さの特権だなって、わたしは最近つくづく思うのです。そして夏はたしかに「質より量」で楽しむべきものだって感じるのです。シャンプーは盛大に泡立てるし、シュークリームはほとんど空気だからいくつも食べたいし。八月には詰め込めるだけ詰め込むのが絶対正解だと思います。「一時停止がむずかしい乗り物」について、考えました。思いつくのは「船」「飛行機」「ロケット」とか。だけどここは「身体」とか「若さ」なんかも考えてみたいなと思いました。なんだか「若さ」にこだわってるみたいですが、夏ってそういうところないです? 止まってる場合じゃないのです。夏なら失敗しても許されるって、許してあげるって思います。そして、「仕掛け付き」と書かれた二首。折句になっています。そして折句にするためのワードの斡旋によって、通常の言葉の配置でなくなって「詩」が忍び入る余地が生じているのだと思います。わたしはこういう短歌がとても好きで、ただ読んで響きと曖昧なイメージを楽しみたいと思っています。なので意味の特定はしません。さまざまな意味や情景や時間が交錯する多層性に遊びたいと思うのです。

泳二 @Ejshimada 様 夏の贅沢
台風に洗われた昼を見下ろしてベランダで飲みほす缶ビール

 主宰のターンです。毎回とても素敵な風を吹かせてくださり感謝しています。今年もとても興奮しました。この短歌の好きなところは、さらりと読める単純な情景描写でありながら詩を感じるところです。情景は過不足なく自然に立ち現れます。視界に入っているものも、ベランダの様子も服装もなんとなくわかるし、青空にちぎれた積乱雲が飛んでいる感じも、時間経過も感じられます。このような情報を読み手から引き出せるのは、簡素にみえるこの短歌が超絶的な配慮によってつくられているからだと思います。「台風に洗われた昼」「を見ろして」「ベランダで」「飲み干す缶ビール」細かく見ていくと、けっして散文の並びではなく「短歌」としての語順であることがわかります。その具体的な効果を分析できる能力がわたしにはないのですが、本当に好きな短歌です。

星川郁乃 ikuno💙💛@ikecyan 様
ソプラノにつられぬアルトを歌いたい 風は微かに水面を揺らす
われも回路のひとつとなしてあの夏と呼ぶべき夜の青い放電

 動画にて表現された短歌でした。「ソプラノにつられぬアルトを歌いたい」ソプラノは主旋律でアルトはコーラス的要素が強いとするなら、この上句では主体の決意が書かれているのだと思います。それはアルトという役割を受け入れ、まっとうしたいという思いです。ですがその分「ハーモニー」という意識が弱いのかもしれません。一文字開けの下句「風は微かに水面を揺らす」この景は、上句との取り合わせとしてどのような意味をもつでしょうか。風と水面とは別のものですが、互いに影響しあっています。主体の決意にはまだ迷いや不安があってそれが水面の揺れと重なっているのかなと思いました。次の短歌はとにかくカッコいいです。「夜の青い放電」を稲妻ととらえることもできますが、オーラとかそんな超常的な光を想定してもいいのでは、というくらいの射程をもった歌だと感じました。夏という回路に組み込まれた我々の生命力がスパークする。「あの夏と呼ぶべき」の「あの」は具体的にいついつの夏、をさす「あの」ではなく定冠詞的「あの」だと読みました。まさに「夏と呼ぶべき」なのです。生命力が放電しまくる特殊な磁場をもったこの季節は。

吉岡繁樹 @no_shigeki 様
アングラの昏き愉悦に倦み果ててただ死ぬために蝉は羽化する/吉岡繁樹

 夏樹様とのコラボによる発表に、AIによる短歌評付動画がとても興味深い発表でした。ブログでもAI短歌評を継続的になさっていて、AIってすごいな、と思いました。この短歌、スタイリッシュですね。塚本邦雄さんみたい、って思います。成長とは死へ至る過程であり、しかも蝉は地中では長らく生きていたのですから、そのまま地中にとどまれえばもっと長生きするのではないか。だが、そのような安寧な土中に飽き、蝉は空に死すことを求める。素敵です。そして蝉の雄は命の限り歓喜の声を張り上げて昇天する。夏の終わりにふさわしい短歌だなと思いました。

おわりに

 以上です。手前勝手な妄想読みですが、好きな短歌が増えていくことはなんて豊かなことだろうと感謝することしきりです。次回もとても楽しみです。

さて、ブログのsideBでは、自作とボランティア参加したことについてまとめたいと思います。それではまた。

令和五年七月の自選短歌五首

そういえば、先月は自選してなかったみたいです。読みたい(詠みたいではなくて)短歌が作れなくて、あ~あと思うことが多い日々です。

そんな中、suiuという短歌の投稿サイトに出会い、そちらは「お題」などにこだわらず、その静謐な雰囲気に浸ることで、なにかまた違った気分でつくることができます。

suiu.bubbleapps.io

七月の自選歌は、suiuに投稿したものが多いです。それにしても、わたしはわたし好みの短歌を作れるようになるでしょうか。その瞬間を楽しみに、どんどん作って、生きようと思います。

それでは令和五年七月の自選短歌五首です。

7月5日 RIUMさんの#連想短歌 純粋
好きなのはあなたがくれたシーグラス濁っていてもきれいね 今も

 

7月10日 suiu
びしょ濡れの肩で扉を押し開けて運命たちと雨宿りする

 

7月10日 suiu
風が葉を奏でる音に意味はないだからこんなに宇宙は近い

 

7月14日 うたの日『 遠距離恋愛
片想いしてるときより遠いってこれが相対性理論なの?

 
7月16日 suiu
これがこの地球最後の一本の線香花火だよ火をつけて

 

今月は、#CD短歌夏フェス2023と、「うたそら」がありますね。どんな短歌ができるか楽しみです。それでは。

 

獅子座同盟11 より 好きな短歌の感想を書きます

獅子座同盟は獅子座生まれの夏の風物詩です。

kohagiuta.com

 千原こはぎ様主宰のさまざまな短歌集は、短歌を作るうえでとてもありがたいモチベーションとなっています。本当にありがとうございます。

 11年目を迎えた「獅子座同盟」。わたしは多分、9回目くらいからの参加だったと思います。テーマは「星・宇宙・星座・獅子・夏」の七首連作と、小文、そして自己紹介文となっていて、特筆すべきは、「小文」があることです。短歌連作を補完する作品だったり、連作制作過程。また作者の世界観の紹介など、ひじょうに趣のあるものばかりで、今回はこの「小文」についても好きなものをご紹介したいと思います。

 以下に引く「好きな短歌」は、ツイッターにあげたものです。そして最後には自作も、記録として載せておこうと思います。

獅子座同盟11 より好きな短歌

「遠い星」一首目 桐野黎様 @Tower11710

遠い星遠い言葉と遠いひと遠いものしか愛せないまま

 近づくと肉の臭いが気になって。リアルさが愛を変質させてしまうようで。わたしからなるべく遠いものならばわたしを変えずにいつくしむことができる。それは失われたものの遠さで、間接的な波としてのみ触れられる幻想なのかもしれず、端的に言えば「魂」でしょうか。でもだけど遠いものとはすぐ間近を通り過ぎて行ったものだけなのだなと感じます。

「星の街」五首目 かわはら様 @suikamikan_kawa

宇宙飛行士になりたいという君に白いジグソーパズルを送る

 白いジグソーパズル。それは光であり、宇宙の無限さであり、限界であり自由でもあり、秘密であると同時に答えでもある。そんな気がします。「君」はその表層に何を見るでしょう。そしてそれを送った主体はそこに何を映したのでしょう。

「Butterfly effect」六・七首目 文月郁葉様 @198hitomosi

両翼を持たざるわれら両腕で鎖されしドアを開くいくつも

ひるがへすスカートの裾 Butterfly effectはもう始まつてゐる

 リスペクトと旗印。飛ぶことはできないけれど確実に一歩ずつを踏みしめていく。踏ん張って閉ざされたドアを開けていく風が地球の裏側にまで大きな影響を与えていくのだ。ファッションであり歌であり。それらは「スタイル」と呼べるのかもしれません。そして「小文」も、素敵にかっこいいのです。

「アンタレス」二首目 千原こはぎ様 @kohagi_tw

いつものようでいつもと違う夏がきてやっぱり星の見えない窓辺

 言葉では言い尽くせない感謝を伝えたいです。本当にありがとうございます。
 切なる思い。とらえきれない喪失感を、星の見えない窓辺を離れ、星々の遠さで埋めていこうとする感覚に、まだ感情がとらえきれないための静寂を感じる連作でした。アンタレス。サソリ座の赤い星。とても印象的でした。

「星屑夜」三・四・五首目 水也様 @m_iya_o

未来とは夏とは夢を見ているよふりそそぐ永遠(とわ) 死と知ってるよ

ひまわりの迷路をあるく君がいるやさしい幻はもういない

すこしだけうつむいているこいぬとか撫でてみている綿のつまった

 宇宙を感じるときの、生と死の曖昧さはなんだろうと思います。星々のあまりに永く遠いことが、人はまるで対局にあるようで、すべてが幻かと思われるほどに尺度の異なる世界のようで。そんなとき確かな何かを感じて安心したくなる。夏もそう。夏もまた宇宙に似ている気がしました。それは陽炎の迷路。思考を否定する魂だけが右往左往する季節。

「小炎」一・七首目 堂那灼風様 @shakufur

星が燃える仕組みを知ってもわからない星はどうして燃えているのか

星々のはるかな流転のなかにあり私をつくるわずかな元素

 壮大な輪廻を歌う連作と感じます。それを司どるのは炎。理由のわからない炎が焼き尽くしそして再生を繰り返す。私が私であるための元素はさほど多くはない。けれど、それらの元素は、壮大な宇宙の輪廻のプロセスに生じると知るとき、宇宙は私であり私は宇宙であるという感覚が芽生えるように思いました。

「ライオンがかっこよすぎる」四・五首目 宮嶋いつく様 @miyazima_izq

ライオンの首を蹴り折る脚力とバチクソしょぼい脳を持つ鳥

ライオンをものともしないキリンさえ迷わず呑みにむかうペリカン

 こうした短歌を詠む宮嶋様がかっこよすぎる、とまず感じました。ここで、ライオンは無敵ではないのだという認識。しかしそれでもかっこいいのは、やはりヒーローとしての宿命を自らが生きようとするためなのだと思いました。もちろん、守るべきは愛するものたち。ヒーローとはとかく、個人的事情から世界を救うものなのだなと思います。

「獅子たる我の」一・六・七首目 森内詩紋様 @NJq4oEvg5glcRpu

我は獅子 炎天に清く咲きかおる八又の百合の乙女の詩歌(うた)の

我は獅子 我が咆哮は詩歌(うた)の屍(し)を弔うがため捧げ置く薔薇

紺碧の天にレグルス金砂には足跡一つ 獅子たる我の

 格調高い連作。まさに短歌の醍醐味を満喫できる連作です。それは「小文」でさらなる深みを堪能できます。獅子としての矜持、プライド。孤高を歩む歌人の歌う理由が悲しみと怒りであること。それは獅子の咆哮であること。獅子座同盟の旗印にふさわしい連作と感じました。

「八月十二日の彼女と」四・五首目 一色凛夏様 @88rinrin23

いつだって笑顔・明るい・やなことはすぐに忘れる(少しだけ嘘)

二人して散々泣いてなんとなくすっぴんのまま星を見に行く

 女子高校生吹奏楽部の日常歌、という趣で、そのころを思い出しながら読みました。いつだって元気、楽しい、サイコー。なわけはないけれど、だけど二人でいるときは、春夏秋冬いつだって真剣だった。そしてまた真夏をともに駆け抜ける最強の友達。まさに夏という感じ。

「ライオンになれなかったネコ」三・四・七首目 夏生薫様 @kaorunatsuo

キッチンでとうもろこしの汁啜る一粒ごとに犬歯立てつつ

ひぐらしよこれが夢かななつかしい熱をはらんだ庭の風かな

太陽と入道雲に両手振る姿のままにさらばひまわり

 本能的な歌と感じました。本物のネコはとうもろこしの汁を啜らない、とすれば「ネコ」は主体の比喩でしょうか。過ぎ去りしものへのいら立ちを感じました。ひぐらしの「かなかな」の繰り返しや、秋を感じる風になびくひまわりを見ている感じ。また夏に置いて行かれてしまうんだな、なんて少し不貞腐れながら、仕方なくバイバイと手を振り返す情景を空想しました。

「流星群のあと」一・三首目 高田月光様 @v8QdMu8WOfj9vbi

心臓はひとりにひとつこれ以上求めてはだめ桃を手にとる

浴室はあかるい夜空からだぢゆう流星群のあと光らせて

 「滅び」がテーマと思います。けれどそれは、破壊や喪失や悲しみとは違って、なにか満ち足りた、満足した、一区切りがついた滅びであるように感じました。運命を受け入れるとき、人は夜空に抱かれ、そして夜空になるのでしょう。すべてはそこに生じ、そこにまっとうし、そこに滅びる。けれど消滅ではなくてやはり、再び光は放たれるのだと思います。それを希望と呼ぶことは少し保留したいのですが。終焉と滅びは違う。滅びには美があり、美は永遠なのだと、そんなことを感じました。

 

好きな小文の感想

早川夏馬様 @kakahayama 『白色より』

骨格標本の描写。その静寂。存在感の確かさと不確かさの狭間でただただ白い骨。

麻倉ゆえ様 @AsakuraYue 『あの子の月影』

「あの子」気になります。伝えきれなかった星空、気になります。「あの子」の言葉、描いた絵。それは見る人を変えてしまう力をもっているような気がします。 

 

自作「ここからは宇宙」七首 + 小文

盆踊り時間を止めろ星だけが通行できる夜の裏道

星たちが持てる力を発揮して夏合宿のバス停を裂く

法律に触れずに曲げるほうき星匂いで当てる架空のリスト

いにしえの天文台座礁してクジラみたいな重力の星

片言で夜と話せば血管を駆け抜けていく星のプリズム

夏の夜の座敷に集う星々となかったことにするDNA

なくなった星の彼方に月は満ち身体をもたないけれど生きてる

 

小文

ここからは宇宙と言われ宇宙から生まれた淋しい宇宙のわたし。

だとしても潮の満ち引きに応じてコップの水も少し震える。

月光に満たされている真夜中の体をそっと逃がしてあげる。

皮膚というグレートウォールだけが持つ触れるという感覚を信じて。

星々の淋しさはシャンパンの泡みたいだね乾杯おやすみ。

 

以上です。素敵な歌をありがとうございました。獅子座同盟万歳

 

 

 

 

 

『うたそら 15』から引いた短歌(連作)の感想です

はじめに

『うたそら』という千原こはぎ様が定期発行なさっている短歌誌があって、わたしは創刊号から、連作八首の部へ「屋上獏部」を投稿しています。締め切りから発行までの光の速さにつねに驚かされながら、投稿作の感覚が新鮮なうちにみなさまの作品を鑑賞できることに喜びと感謝を感じながら、毎回、楽しく読んでいます。

7月の頭に第15号が発行され、わたしは好きな短歌をtwitterに、短歌のみを引きました。このブログではそれらの短歌(連作)についての感想を書きたいと思います。

kohagiuta.com

なお、今回上げたのはすべて「八首連作」のなかの短歌です。このことで、わたしはいつも、連作の一部のみを引くことが、失礼になるのではないかとの思いを持っています。連作は相互補完と相乗効果こそが特徴になると思うからです。

今回のブログでは「連作」としての魅力も、語れたらいいなと思っています。順番は『うたそら』への掲載順です。

それではまずはこちらの歌から。

本文

なんとなく水掻きのある手のひらで押した第4コースの黄色
「ラムネのなかへ」 雨虎俊寛 さん @amefurashi3107

 連作の六首目に置かれた歌。
 水泳大会決勝のスタート直前の緊迫感から、はじけるようなスタートそしてライバルを横目にペース配分しつつ、ターンの瞬間の飛沫。ゴール。激しい息遣いは別の世界のことででもあるかのように、あおむけにぽかんとプールに浮かぶ。そして八首目で、それらの情景が、君の髪から香るプールの匂いに触発された「あの頃」の思い出だったとわかります。あの頃の真剣さ、真剣だったゆえに見失ってしまっていたこと、そしてそれらを忘れてしまっていたこと。夕立のあと、濡れたアスファルトの向こうには虹が見えていたのかもしれません。
 と、これはすべてわたしの勝手な解釈で、以後、連作の解釈はすべてわたしの趣味にひきつけたものなので、あらかじめお断りしておきますね。

 好きな歌としてあげたのは、ゴールの瞬間を詠んだものです。第四コースとなると、これは優勝を争うタイムの持ち主だったのでしょう。水掻きのある手のひらはその自負でもあり、けれどもこの瞬間には確かに違和を感じている、戸惑いを感じるのです。勝つこと。そのために青春のすべてをかけてきたこと。この手につかみ取ったはずの何かが、水掻きごしのどこか不自然で間接的と感じてしまう。この大会で引退したのかもしれません。以来、そのキャリアに触れることもなく。と、そんな風に感じます。

「なんとなく水掻きのある手のひらで」が好きなポイントでした。

 

人ひとり殺めてしまう勢いでハーゲンダッツにフォークを立てる
「Foods」 新井きわ さん @kiwa0419

 こちらも六首目の歌です。
 食べること。食べられること。生きること。死ぬこと。生きるのは遺伝子を残すため? ほかならぬ自分の痕跡がネガとして残る「食」という行為。特に卵は象徴的ですが、八首目ではその卵がフリスクへと変容していきます。あたかもそれは、生きていることを実感できないままカプセルの中で生きることになかば諦め、かすかにいら立ち、何かの印を求めてしまう心情を感じます。
 ハーゲンダッツは固いので、専用のほどよく溶けるスプーンを売っていたりもする高級なアイスです。何か特別なアイスだったのではないかと想像すると、案外、このペシミズムは、ハーゲンダッツを一人、フォークで食べようとしている状況を招いてしまったことから発しているのかもしれません。ハーゲンダッツにフォークを立てる勢いで人を……

花火、夜景、星野リゾート この人は会えない夜のことばかり言う
いつのまに青がこんなに濃くなって、夏じゃんこんなの、ひどい、まぶしい
「はんとし」 井倉りつ さん @uta_litz

 三首目と八首目です。
 端的に不倫を思わせる状況。耳障りの良いできない約束めかした夢ばかりを、未来を担保に語るダメな男にめちゃくちゃにされている状況に、心が疲れ切っている。もしかしたら実現するかもしれないと望みをいだいていた夏がもうすぐそこまで来てしまった。相手はそれをかなえるつもりなんてないと、わかっているけど認めたくない。認めるくらいなら死んでしまいたい。という悲痛さを感じながら、八首目にようやく、感情をストレートに表す言葉が聞けたことが、希望であるように感じたのです。

背を伝う指が何本か分からない原野をでくのぼうがうろつく
「くたくた」池田竜男 さん @tankadragonman

 七首目です。
 勉強不足なので定かではないのですが、それぞれの歌が本歌取り的な、出典をもつような感覚があります。一首目はストレートに「山口百恵」ですし、二首目の「やさしい鮫」は村松正直さんの歌集を思い起こさせます。
 連作タイトルの『くたくた』は、八首の短歌をたしかに統べていると感じますが、それを明確に言葉に示す技量がわたしにはありません。引いた歌もそれはたしかに「くたくた」だと感じるのですが、情景にも抒情にも当てはまるし、漠然としているようで明確である、不思議な描写で、そこにとても惹かれました。

公園の丘を登れば咲いて居る泰山木の白き花かな
落雷の凄まじき時エヌエイチケー再放送のドラマ見る母
「公園と雨」 石川順一 さん @Hitler57

 二首目と四首目です。
 アララギ派写生短歌の風格を感じました。風景即情感は短歌の王道形だと思っていますが、作歌はかなり難しいと感じています。「公園と雨」八首は、その意味で勉強したい短歌です。風景は自らの感覚で取り込まれ、再構成されたモデルそのものですので、そこには必ず情感が作用しているわけで、したがって、そうした風景をそのまま短歌に移すことができれば、感情を示す抽象的な言葉など一切不要なのだと信じられる連作でした


最近の天気予報は当たるから今夜わたしも雨と降りたい
「ボニーとクライド」 泳二 さん @Ejshimada

 五首目です。
 「ボニーとクライド」の話はうろ覚えですが、改めて読み返すと七首目の歌がなぜか連作の中でキーになるという感じがしています。そして、通底するテーマとしての「雨」。読み解くという読み方は苦手なので、短歌を追っていくしかないのですが、覚悟をもった二人の旅の約束、でもそれは果たされることはなかった。というストーリーが浮かんできます。引いた歌は、100パーセントではないけれど、当たる確率が高い雨にこの身を託せば、あなたの元に降る(会える)可能性が高いのではないだろうか、という風に読みました。天気予報の確率にすがりたいほどに不確かな今。

性別もSNSじゃ曖昧で羊の肉は良く焼けている
「犬街で会う」 涸れ井戸 さん @kaionjijoe

 七首目です。
 萩原朔太郎さんの猫町を思い起こさずにいられないタイトルですが、今、知らべたところ、大阪にあるアートギャラリー+本屋さん「犬と街灯」のことなのでしょう。そこに集った折の記録が連作になっているのだなと思いました。
 短歌を引いたときは、そのお店の存在を知らなかったので、架空の街「犬街」でのスケッチとして読んでいました。すると、曖昧な性別も羊の肉も、妙に生々しい感覚で肌に染みてきたのでした。そして、いまは、実在のお店の実際の集まりが、この無国籍な感覚を醸し出せる短歌の力にあらためて感じ入っています。


あの山を越えてゆくバス捕まえて花束だけをそっと乗せたい
「紫の花の香り」 河岸景都 さん @kate_kawagishi

 七首目です。
 紫の小さな花の変容。結合と分断。湿潤と乾燥。そして喪失感。記憶とはやはり香りに似て、香りの記憶は褪せずに残る。この連作もやはり失われてしまった相手を軸に編まれたものだと感じましたが、取り戻したいとか、再会したい、という切望というより、もっとドライな「確認」という感じがしました。別れは成長の過程であり、今の自分は当時にくらべて変わってしまってはいないだろうかということを、当時をわかちあった相手に確認したいのだという感じで、だから会いたいのは当時の相手であって、今の相手ではなく、その分届かない手紙を書くように、花束だけをバスに乗せたいのだという風に読みました。返事なんていらない。むしろ返事がきたら台無しになってしまう、そんな感じ。

飲み干した水の透明さでうまれだからこそヒトは争って死ぬ
「calling」 君村類 さん @kmmr_r09

 六首目です。
 短歌って「君」や「あなた」に伝えたい伝えられない想いを記すものなのだなと改めて思います。そして、そういう短歌を詠まずにいられないときの閉塞感に息がつまる思いです。苦しさのなかでは、ほんのわずかな光やほんのかすかな風にさえ、救いを求めたくなるものです。そうして、このあまりにも心細い救いに絶望した折には、自己問答が無限に繰り返されているのです。このようなときに短歌を詠むときの客観視の是非を感じることもあるのです。苦しむ自己とそれを詠む自己との乖離は、ときとして致命的であると思われるからです。しかし、それでも歌人は詠まずにはおられないのです。苦しみから、よい短歌の手がかりを得て涎をたらしつつ言葉を探す。シオランは『一冊の本は延期された自殺である」と言いました。わたしは延期だろうが、保留だろうが、過程だろうが、死ぬまで短歌を詠みたいと思いました。


鉛筆で描く自画像の真っ黒に塗りつぶされた目にあるひかり
「勝手に食べる」 鹿ヶ谷街庵 さん @ikasamabakuchi

 二首目でした。
 連作のタイトルとして、全体のテーマの場合、表題作的な決め方、と大まかには二通りがあると思います。この「勝手に食べる」は六首目の下の句に出てくるフレーズです。連作として「食」に関連がある歌ばかりということではなかったと思います。死(別れ)を感じる連作だという印象がありました。ですがこの「死」は「青春」と分かつことのできない「死」でありつまりは「若さ」こそがテーマなのだと思います。そして「若さ」の抱える問題とはすべて「恋」にかかわる問題なのでした。勝手に食べる。それは片思いの状態を指すといえなくもないのかなとも思います。出会いと別れはそのまま生と死に直結する体験なのでした。目が死んでいる状態でもなく、ふざけたわけでもなく、鏡にうつるダメな自分の顔を見つめ続けることを強いる自画像の授業において、目がひかりを宿していること。そのひかりは好ましい輝きとしての光ではないのです。命とは、ある意味邪悪なものなのだとわたしは思っています。

人間は星の数ほどいるけれど星は灯りであまり見えない
「たいらな鬱たち」 白藤あめ さん @ametxt

 八首目です。
 たいらな鬱たち。救われないことこそが救い、という境遇はたしかにあって、救われるはずなんてないとあきらめきった状況の中、時折、そばにいてくれる人を実感できること、本当に時々、いてくれてありがとう、と、一瞬の息継ぎみたいに、それで少しだけ楽になるってことは本当にあるのです。明るすぎる町はまぶしすぎて人の姿なんてあまり見えない、けれど見える人が一人でもいれば、この歌みたいなことを言葉にしていってみたりすることもできるし、それで相手が困った顔をしてるのをみて、困らせちゃったな、迷惑だったかなって反省したりして、落ち込んで、けっきょく自分なりの方法で曲とかきいたりして過ごすのだ。寂しいとかいって困らせてごめん。でもありがとう。そんな風に伝えられたら、と思いながら。

キャンドルを吹き消しましょう このままじゃ二人の未来が見えすぎるから
「超個人的メルヘン」 たえなかすず さん @suzusuzu2009

 六首目です。六首目を選ぶことが多い気がします。
 なんだかとても幸せな連作という印象を受けました。「超個人的」ということは単に「個人的」ではなくてものすごく個人的、という意味かまたは個人的であることを超えた、という意味かを、宙ぶらりんにして楽しみました。広末さんとキャンドルの取り合わせも、あえて深入りせずにして。記念日に灯すキャンドル。それは何かの節目であったり将来を誓い合ったりするセレモニーを思わせるのですが、それを吹き消すことでつなぎたい未来がある。生活とか、世間だとか、法律だとか、そういう雑多な日常のことなんて全部些細で重要すぎて、だから醜いものは見えないようにキャンドルを二人の息吹で消して、暗黒面に落ちて生きよう。なんて、そんなふうに読んでみると、メルヘンはすべてタナトスに通ずるなんていう説に俄然近づいてくるのでした。

感情の回路が壊れているらしく今日は「はばたき」の四文字で泣く
青い花」 千原こはぎ さん @kohagi_tw

 三首目です。
 千原こはぎ様。さまざまな短歌誌の発行、本当にありがとうございます。
 さて、近しい方を亡くされた際の連作と読みました。わたしの場合は、両親の死がもたらした奇妙な時間と記憶の歪みを思いました。早朝に気分を変えたくて入ったお風呂で声をあげてただ泣いたこと。本当に必要な書類や、確認しなければならない信書とか、会社関係への連絡だとか本当に、感情を忘れてひたすら事務的な処理に奔走し続ける日々がひと段落したとき、両親と過ごしたはずの記憶の大半が、記憶から抜け落ちていることに気づきました。それでも年月は流れていき、仏間の遺影もしだいに色あせていく。両親が不在の世界線を生きている自分に、いまも少しなじめない感覚をもちながら、涙もろくなっている自分に気づく。自分のことに引き寄せて、読みました。

さっき挨拶した先生とすれ違うときの会釈のように降る雨
「日輪」 ツマモヨコ さん @moyoko_bungaku

 四首目です
 日輪。それは二首目に出てくる言葉で、しかもこの連作全体に通底するテーマでもあると思いました。指輪のようでもあり、記念日のケーキのようでもあり、机上におちる猫背の影のようでもあり、実印のようでもあります。
 まずはこの歌の比喩に惹かれました。雨をこういう感じにたとえられるなんてとても羨ましいなと感じます。けれど連作においては、さっき挨拶した先生は弁護士さんかな、なんて読みながら思って、なんとなく離婚調停を感じています。するとDVが透けてみえてきて、一首目がにわかに不穏です。連作には風鈴が出てくるのですが、なぜか寒々しく重たい空が見えます。日輪という言葉に暗さを感じさせる、とても心にのこる連作でした。

気味悪い骨が見つかる現地語で「封印」という名を持つ露頭
古代魚」 堂那灼風 さん @shakufur

 一首目です。
 いわばこの短歌の世界観を一発で示す、まさに一首目という感じの歌です。しかも現地語で「封印」というのですから、最高の不穏さです。古代魚が生きた時代と、現代とのあまりにも遠く深い隔たりを一瞬でつなげる化石。けれどそれとて、想像上のことでしかなく、失われて久しい海は、死体をうずめた土に変ってしまった。そうか、地球とは全体が土葬の墓所なのだと気づかされ、我々は死体の声を空想することしかできない。そう思うと、あらためて「封印」という名をもつのが古代魚ではなくてその古代魚の化石が埋もれていた露頭だったことが、改めて重要になります。そこは特別な地だったのです。そしてそのように特別な地として、地球があるのだとしたら。八首目は過去ではなく未来なのだとしたら。


晴天が四日続いた朝祖母は静かに龍の許へ帰りぬ
クラミツハ(五)「還る」」 ともえ夕夏 さん @croissant_hey_z

 シャーマンの祖母。クラミツハは谷川の水源を守る神だと検索したらありました。この連作では雨乞いを続けるさ中召された祖母をうたったものと読みました。二首目と六首目で繰り返される萩を届ける子供の情景が、美しくも悲しく感じられます。命を削って村のために全霊をかけることが使命であることに疑問を持たずに祈る祖母の神々しさと、痛々しさがひしひしと伝わってきます。宿命というものでしょうか。八首目。待望の雨。けれど「困ったわ」から始まることで、残されたものたちの心の中の複雑さが表現されていると感じました。隔世の村の風景が目に浮かぶ連作でした。

さあ君を連れて港へはつ夏の鎖骨は指を引っ掛けやすい
「引っ掛けやすい」 中村成志 さん @nakam8

 七首目です。
 「引っ掛けやすい」はこの歌の結句にでてくる言葉です。夏が来たという歓喜に満ちた連作と感じます。実はまだアジサイが咲くはつなつの情景なのですが、待ちきれないわたしたちは夏に体をねじこんでいきたいのです。夏の鎖骨は、キャミソールとかTシャツとかで露わになっていますから、指を引っ掛けやすいという発想が、素敵です。だけど折れやすいから気を付けて。駆け抜ける夏。立ち止まるのは夕暮れの海岸付近。そのあとはまた花火に走る。夏を謳歌したくなる連作です。


届きますように届きますように二円切手を板の間に貼る
「食パン袋」 西村曜 さん @nsmrakira

 八首目です。
 不思議な短歌です。二円切手はエゾウサギです。連作からは貧困という言葉が透けてきます。届きますように。のリフレインは切実です。しかし二円切手を貼るのは、料金不足の封書ではなく板の間です。「食パン袋」は四首目に出てきますが、それを持たないというネガティブな扱いです。パンくずを食べる鳥というイメージも浮かびますし、少額のお金が執拗に出てくるイメージもあって、幸福とはいえない情景が思い描かれます。板の間に貼る二円切手で届けたいのは、自分。家具もない板の間の部屋をレターパックに見立てて、自分をエアメールかのように遠くへ届けてほしいのだという願い。
 もしかしたら、この二円切手のみではなくて、わずかなお金を余して帰る切手をずっと貼り続けているのではないかとも思われ、それはなんと悲しい祈りであることでしょう。

答案を裏返したら先生へ読めないくらいに薄く、恋文
「蒼い」 深影コトハ さん @cotoha_mikage

 二首目です。
 「蒼い」は連作中にはなく「青」が一首目と八首目に現れて、この「青」はおそらく同じ「青」で「夢」の象徴だと読みました。青い光は夜間とか深海とかの光を思わせます。教師への恋愛感情は、星座のように繊細な輝きだったものが、育っていく幻獣となり、やがてはっきりとした肉体関係へ発展した後、自らを汚すように炭酸を飲む。「青」は余韻を持て余す「蒼」へと変わる。この連作からはそういう行為に対する罪悪感や教師に対する断罪などは一切なく、「幻滅」=「蒼」という位置づけなのかなという感じがしました。


(八首全部好きです)
「遺言」 深山睦美 さん @57577_77575

 全部を写すわけにはいかないと思うので、二首目を引きます。

夢色のでっかい馬糞撒き散らし竹下通りを往くユニコーン

 テイストはこういう雰囲気の八首です。短歌的飛躍にあふれ、現実世界をメルヘン側に拡張する連作で、その温度感がとても好きです。
 「遺言」は一首目に出てきます。そしてそれぞれの歌にも「遺言」は影を落としています。それは馬糞を撒き散らして歩くユニコーンや、蟹や、塹壕の中や、小田急線とくちづけを交わす人や、地縛霊や、ホコ天にいる人々や、空き巣で、死が予感されなくもない状況を示唆する歌が続いているところです。死の刹那に見えるという走馬灯の間、時間が止まっているかのようにゆっくりになる感覚が、これらの歌から感じます。

 

だれひとりかなしいひとをのせないでハッピーエンドの終電はしる
「アイドルとサイレン」 虫追篤 さん @musouatsushi

 八首目です。
 アイドル。偶像。崇拝の対象。そんななかで手品師はどのような役割を果たしていたのか。神は実は無力で、ただ人々に希望と連帯を与えるシンボルなのだと思いました。「だれひとりかなしいひとをのせないで」という言葉には、厳しい選別の感覚があります。そしてサイレンが次々と鳴りやむ世界には終末の予感を彷彿します。

悲しみ 悲しみ 悲しみのカケラ
持ち帰ってください
あなたの事情は関係ないから
持ち込まないでください
モーニング娘。’19 「愛されたい」より)

 しかもそれは終電です。手品師は無事この電車に乗れたでしょうか。

 

風に舞ふレジ袋たちあれはきつとレジ袋の国へ向かつてる
「寂しい遊園地」 村田一広 さん @mucci2022

 六首目です。
 風に舞うレジ袋。吹き溜まりへ向かう途中のレジ袋はみんな同じ方向へ向かっていくようにたしかに見えます。そこをレジ袋の国とよび、そのように呼ばれるとき、その国はなんだか黄泉の国を思わせるのです。
 遊園地のアトラクションには、さまざまな部族の成人通過儀礼を思わせるものも多く、仮死体験よる再生の喜びを感ずる構造として読み解く研究者もいたと記憶しています。しかし、この連作の「寂しい遊園地」は遊園地ではないようです。それは悪夢というにはとりとめのない、救いというにはあまりに薄すぎる、覚めるまえの覚めることのない夢なのかもしれません。目覚めたとしても余韻として残り続ける寂しい夢。それでもなぜか懐かしくかんじてしまう。不思議な感覚です。

血を抜いてゐると言はれたカラオケのとなりの部屋の音が明るい
「刻」 朧 さん @rou_tanka

 五首目です。
 抗いようのない運命を感じる連作でした。親と子の関係性なのかもしれません。最後まで修復することはできなかったけれど、抗いようのない血。認めてもらえなかった仕事。「刻」というタイトルは、「時間」「刻まれる身体」「刻印」など、幾重もの意味をもって連作のアンカーとなっていると感じます。当初、この歌を引いたときは単純に、カラオケボックス献血コーナーがあって、血を抜いている部屋の隣で歌ってる情景と呼んでいて、そのような状況にひかれたのでした。だけど改めて連作として読み進めたとき、以上のような感想をもちました。さらに深く読める連作だと思います。

おわりに

以上です。

いつもながら的外れな解釈の羅列となっていることと思いますけれど、わたしにとって心にのこる短歌であることだけでも伝わればうれしいです。そして、素敵な短歌をもたらしてくださったみなさま、本当にありがとうございました。

見覚えは無いが確かに自分だと分かる二体の亡骸がある ―『中庭と三階』 五十首(再録)

  2020年11月25日 虹蔵不見(にじかくれてみえず)

 

  過去を拗ね未来を喪失した四月観光ビザで入った高校

 

  中庭へ身を投げ出した雪柳池に飛び散る春のスペルマ

 

  ただそこに取り残されてあるだけの一基の噴水塔の筒先

 

  陰鬱な直方体は旧校舎一週間は籠城可能

 

  錆び付いた鍵の意外な重量を苔むす一基の石碑に記す

 

  踊り場の鏡の外にある地獄鏡の中の世界は喜劇

 

  三階の非常扉をこじ開けて春の粒子に傷つけられる

 

  窓際の雨だれ映す席からは隠れてしまう避難経路図

 

  からくりが壊れた機械の作動音―がんばらなくちゃがんばらなくちゃ

 

  プリントを詰めた鞄を横抱きに教師は運送業者でもある

 

  巡回図書館司書の面影鮮明に大きく転写されてる背中

 

  自意識の中絶に苛立ちながら目玉を猫に舐められている

 

  感情はただ一晩で消え失せていびつな影が立ち塞がった

 

  話したいときに話がしたいなら身体に触れることを禁じる

 

  滝壺の金砂銀砂を巻き上げて逆さに沈む夏のタナトス

 

  寛容と侮蔑が同じものと知りあの年の夏は難産だった

 

  目の前に置かれたカップの輪郭が不穏な色を湛えて濁る

 

  暮れかけの日射しが窓を透過してただ鋭角に交わる廊下

 

  「目の前で苦しんでいる人がいる……」そう言いかけて口を噤んだ

 

  滑らかな水銀色の振動は義眼をとぷんと浮かべた涙

 

  びしょ濡れの制服脱いで見上げれば夜空に星があるはずだった

 

  「先生に送ってもらうからいいの家じゃできないこともあるしね」

 

  ぼんやりと入道雲を眺めたり悲壮な理想渦巻いてたり

 

  遠方の基地を飛び立つ戦闘機伸びきっている谺のような

 

  魂を持たぬ言葉の私生児が骸を晒す秋の底辺

 

  傾斜した光の矩形の中にいてボールが一個見つかりません

 

  目を閉じて嵐の過ぎるのを待ったこの選択という無選択

 

  日焼けした膚から悪意漲らせ最後の逃避を試みる猿

 

  相対の反語が絶対だとすれば僕は狂っているのでしょうか?

 

  骸骨にゴム貼りつけたような顔まだ手探りの意思疎通法

 

  骨ばった白い背中は逃れたい過去に未来をしばられている

 

  冬服が日差しを全て吸収し限定された時空を生きる

 

  真夜中の轍全てを切り裂いて屋上に立つ女生徒の傷

 

  屋上を飛び立っていく声のみの鳥の姿を描いたカンバス

 

  真夜中に手すりを越えた女生徒の真一文字の軌跡が残る

 

  屍を前に怯える木偶の坊 星がまったく見えない夜空

 

  見覚えは無いが確かに自分だと分かる二体の亡骸がある

 

  複雑な影を織りなす放課後の掲示板には画鋲が一つ

 

  陶酔の中に生じた嫌悪感水晶玉のように映して

 

  目の前を影が幾つも横切ってわたしはただの残像だった

 

  夜を映す池に飛沫が上がるとき私は彼を裏切っていた

 

  ババ抜きはババがなくても成立し帰るところのない人ばかり

 

  信じるか信じないかというよりも空の重みでひしゃげた校舎

 

  名を持たぬ特定不能な感情の提出期限は今日中だった

 

  何もない広い倉庫に転がされ次第に冷えてゆく猿轡

 

  先生を尊敬しますそのかわり僕を軽蔑してくれますか?

 

  砂粒が不規則に蠢いていてどうやらやっと狂い始めた

 

  温かな日差しを透過する窓の硝子はずっと冷たいままで

 

  輪郭の際立つ雲の一刷けが繰り返されるカーテンコール

 

  人々は時間の縁を過ぎてゆき見渡す限り冬は結晶

 

生きていきます。

短歌の身体

以下は、
2023年6月18日 KISARAGI vol.1201 に掲載した
「宇祖田都子の身辺雑記 その5 それから2023年6月18日までのわたし」の内容に、野村日魚子さんの川柳と短歌の引用を加えたものです。

ここから本文

 鬱陶しいという文字だけで頭痛の去らない日々ですが、鬱陶しい気候もまたその時でなければ味わえない現象ととらえて、不調は不調として詠っていけたらいいなと思うのです。

ゆるさない絶対にゆるさないぞとびしょ濡れの犬が言いやわらかい布で拭いてやる
(野村日魚子さん『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』より

 ところでわたし、野村日魚子さんが好きで、小祝愛さん名義のものから蒐集しておりました。なんといっても定形から浮遊したリズムの心地よさ。ときに川柳として詠まれる句もまた短歌の情景に連なっていてこれは短歌だとか川柳だとか俳句だとかを越えて、大まかに詩なんだと捉えています。

尾の長い生きものばかり好きになる

白い建物はひとつもないよ、ここ

ていねいに餃子をたたんでよきつね

観光地としてのかいじゅうの死体

悪人はいなくてたくさんあるお墓

(野村日魚子さん オンライン文芸サークル六枚道場 第五回<詩・俳句>部門 グループH より)

 そうしてそれらを短歌と呼ぶことにもさほど違和は感じず、わたしの中では短歌とはやはり抒情なので、叙事に終始したい俳句との違いはわたしの中ではとりあえずある、と考えています。

傘を盗んだひとぜんいん轢かれる映画だった

海にすべての家具を捨ててあのね引越し前夜だった

(野村日魚子さん 引っ越し前夜 より)

 その意味で俳句の短歌化の流れは「詩の抒情化」に通ずるのではないかと思ったりもするのです。わたしは短歌を作るので、感情に訴えたいと思います。事物を提示して、それをあたかも景色のように鑑賞してもらうことが俳句的であるとするなら、事物に抒情を載せて提示し、共感や反感を求めるものが短歌的と、とりあえず定義するとして、俳句の読みに求められる結社性と、短歌の共感による結社性との違いというものがなんとなく考えに浮かんできたりもします。

「火星なら変な形がモテる」って笑ったきみのうさぎパンツ

るる、聞こえてる? ここをこうしてこうすると人は死ぬんだそして実際に死んだぼくだ

使い方わからないからとやるせなく笑い性器を埋めにいった暑い夏の日だった

(野村日魚子さん 野村日魚子2016 短歌はじめたばかりのころの短歌をツイートします 2022.8.2)

 

 6月12日のtwitterで、野村日魚子さんは書きました。
@GcXgtk
「なんで定型の歌を作るのが好きじゃないか考えたとき、定型というのが「その短歌をうたっている人、の存在」という身体性を自動的にその短歌に付加する特殊装置だと考えると、明らかにウソなのにわざわざ「うたっている人、の存在」を見せるのって白々しくてキモいなーみたいな気持ちがあるかもしれない」
「ウソならかっこよくウソつきたいし、たぶん、わたしは短歌の短歌らしさというのを別に「うたっている人、の存在」の身体性には見出していないんだろう」

 短歌を作りたいから、定形にまとめようとする。わたしはそれを当然のことと思っていましたし、短歌らしい短歌を作れたら短歌ができたと考えていましたが、非定形や自由律でありながら短歌と呼びたい作品が提示されたとき、当然のように短歌の形式とは単に形式であるにすぎないのだという当たり前のことに気づかされます。

分娩室に百冊もある本たちのどれ一つとして<あい>の文字なく

ドーナツあげる。頭に載せて生前をやり直しなよと天使言いけり

雪の夜。死ねば小さな丘として地図になりたい 火事を見に行く

((野村日魚子さん『百年後 嵐のように恋がしたいとあなたは言い 実際嵐になった すべてがこわれわたしたちはそれを見た』より)

 わたしは短歌に限って「作者」「主体」「作中主体」「作者の身体性」などが、ことさらに過大視されていることにどうしても馴染めず、小説の主人公が殺人を犯したからといって、作者が殺人者でないことを「嘘だ」と指摘することはないのに、なぜ短歌だと「嘘」だと非難され、作品の評価を下げてしまうのかが、まったく理解できません。

心臓もあげます 一生をかけるようなものではないのです 夜が明けます

犯罪の多い町に生まれ犯罪
の多い町に生まれ太郎と名
付けられたことに不満はな
く 話は終わる

生活のために殺されることの多いどうぶつの話をした夜の窓の外側は火事

(前掲書)

 歌人は五・七・五・七・七の身体をしている?

 万葉の昔から相聞歌があって、おそらく短歌はその相聞歌によって生き延びたのであれば、作者が伝えたい本心を歌に託すという伝統がそれほど短歌を支えてきたというのでしょうか?

肝臓ははんぶんこにしようエチカからだくらいは軽いのがいい

しゃぼん玉なんども食べようとしてるゾンビになってもきみはきみだな

線引きができそうな雨いまおれは許さないって言われるのがすき

(前掲書)

 わたしはわたしという存在を通してわたしをわたし以外へ拡張したい、だったり離脱したい、だったりという想いで短歌を作っていて、毎年友人と開いている同人展でも「わたし」をテーマとしたことは一度もありませんでした。
 野村さんの「あきらかなウソなのに」という感覚に、わたしは全面的に賛同できますし、だから「あきらかなホントウこそが正しい」などとも思わないです。だって「あきらかなウソ」だけが「ホントウ」なのだと思うからです。わたしのしていることは、生きていることも含めて「創作」であってどうせ創作するなら「わたし」に閉じこもってなんていたくない。もちろん、感覚機器としての「わたし」の性能はもはやどうしようもないのかもしません。だけど、それを経験やインスピレーションや、「定形」などによって高めることができるならば、感覚の段階ではなくて表出の段階で、創発することができるのならば、それがわたしの表現であって、その形式が短歌なのか、俳句なのか、川柳なのか、小説なのかは、単に形式にすぎないのではないかと考えています。

また百年たてば死ぬんだおれだけが あのときこわかった 犬 なんだっけ

ていねいに朝みがく歯の永久歯の永久歯の永久さのこと考えている

たましいとか言ってんのうけるちくちくとつつかれてまわるたことたこ焼き

はずす絆創膏から人んちのシャンプーの匂い歩いて帰る

(前掲書)

 だから「表出」された作品において、「わたし」はとっくに消え去っているのでなければ駄目なんです。それは「短歌」の形式を選んだとしても同じことなんです。

友達のラインを越えて唇がムンとでてくるから応えちゃう

 鬱陶しい時期に鬱陶しいこと書いちゃいましたね。これこのままブログの方にの転載しておいて、野村さんの短歌をいくつか引用してみたりしようかな。

 ということで、引用を加えてみました。

 

追伸 2023年6月18日午後20時25分

引用二個所誤記がありましたので、訂正いたしました。たいへん申し訳ありませんでした。

誤記:「火星なら変な形がモテる」って笑ったきみのうさぎパンツ

訂正後:「火星なら変な形がモテる」って笑ったきみのうさぎパンツ

 

使い方わからないからとやるせなく笑い性器を埋めにいった遠い夏の日だった
使い方わからないからとやるせなく笑い性器を埋めにいった暑い夏の日だった

以上です

令和五年五月の自選短歌五首

梅雨ですね。

雨の多い今年の梅雨。みなさま無事におすごしでしょうか。知人が家を失って会社の寮へ一時避難をするお手伝いをしたり、雨漏りへの対応をしたりと、気の抜けない週末を過ごしました。

さて、5月は短歌の焦点が合わないような、もどかしい月となりました。わたしは短歌を作ろうとするときに、完全静止してしまう癖があって、その状態では、叙述やワードに囚われたままの心を解き放つことができないので、たいがい時間ばかり費やしてしまって短歌はまるで駄目だということが判っているのですが、つい、手を停めてしまうのがいけないのだと改めて感じているところです。

寺山修司さんは、原稿用紙を前にして思いついたフレーズを書いて、それらを組合わせたり付け加えたりしながら短歌をつくっていたという記事を読んだことがありますし、わたしもマンダラートとマインドマップを用いた方法で実績があるのですから、これからは、手や眼を動かし続けることを自らに課して、取り組んでいきたいと考えています。

それでは、令和五年五月の自選短歌五首です。

令和五年五月の自選短歌五首

5月14日 『 出来 』
飛ぶことは出来ないけれど少し浮くくらいは出来る人とのデート

5月20日
ジャンプ傘なんて素敵なネーミングわたしもジャンプホモサピエンス

5月24日 RIUMさんの#初句
色々な愛され方があっていい例えば一生会えない人に

5月24日 『 それ 』
片方のピアス失くせば永遠にそれは片方失くしたピアス

5月30日 RIUMさんの#初句
満たされたフリをしているシャボン玉割れても何も失えないね

以上です。

それではまた。